それは魔性めいて

 そこから先のことは、実に淡々としたものでした。夏が終わる頃には、レイチェルは女子寄宿学校へ帰り、ニコラスもまた、次の年には寄宿学校へ入ることになりました。ロナルドは仕事で都会へ渡ることが多くなり、私とキングストン一家を繋ぎ止めるものは無くなったのです。あれだけ頻繁に交わしていた文通も、長期休暇の度に帰郷したレイチェルの姿も、遠い幻となりました。
喪失感と恐怖に苛まれながらも、その頃は平穏な生活を送っていたように思います。ロイストンの社交界で別の人間関係を築き、時には同年代の少女と戯れ、時には年上の殿方に思いを巡らせることもありました。けして華々しくはありませんが、慎ましく、穏やかな日々だったのです。時折、あの嵐の夜を思い返しては、あれは夢だったのだと自分に言い聞かせていました。
 漠然と、そのような毎日が続くのだろうと思い込んでいたのです。変わり目というものは、前触れなしに訪れます。私がちょうど20になる頃、ある冬の日、お屋敷にあの姉弟が戻ってきたと噂になりました。無味乾燥とした装飾の封筒が届いたのも、同じ時でした。差出人がレイチェルだということを知り、私は驚きと喜びと、少量の嘆きを持って、手紙を読むことになったのです。婚約し来年の春にはロイストンを去ることになったこと、そして是非舞踏会を開催するので来て欲しい、といった旨が記されていました。悩んだ挙句、私は招待を受けることに決めました。純粋に、レイチェルと会って、昔のように語らいたかったのです。 



 久方ぶりに見るお屋敷は、懐かしくもありましたが、どこか寒々しい雰囲気を醸し出していました。かつては冬になる度に集った、大きなダンスホール。華美な服を纏った、多くの人々が笑い、酒を交わし、踊っています。ただ、それだけなのです。幼い頃はもっと胸を踊らせ、瞳に映るもの全てが魔法にかかっていました。無垢な魔法は、大人になれば失われゆくものなのでしょう。そのような景色を、私は漫然と眺めていました。
 だからでしょうか、レイチェルの姿に気づくのが遅れたのは。彼女は華奢な夜色のドレスを纏い、男性の注目を一身に受けていました。顔立ちは少しの色香を加えただけで、あの頃と同じままでした。しかし、何かが違うのです。お屋敷で共に遊んだ時のような、蠱惑的な魔性は損なわれていました。彼女は確かに美しい、けれどそこに留まるのです。
彼女が私に気づき、颯爽と近づいた時、私は当惑しました。

「久しぶりね、イヴ」

 儀礼的なまでに手を取り合い、私達は互いを値踏みするようにして見つめ合いました。

「ええ、レイチェル。その、婚約おめでとう」
「ありがとう、イヴ」

 レイチェルは早口にそう言いました。そうして仕切りに視線を彼方此方に送り、何かを気にしているようでもありました。彼女の顔には、焦りがありありと浮かんでいました。

「ねえ、貴女に言いたいことがあるの」
「それはこちらの台詞だわ。レイチェル、あの時は本当にごめんなさい」
「違うの、それはもういいの」

 彼女は悩ましげに首を横に振りました。煮え切らない彼女の態度は、私にはとても奇異なものに映りました。

「もしかしたら、私が間違っていたかもしれないわ」

 レイチェルがそう呟いた瞬間のことでした。彼女は瞳を溢れそうなほど大きく開けて、私を見据えるのです。いえ、正確には私の背後でした。
 
 振り返れば、彼の人が、飄々と立っていました。
 彼は、ニコラスは、すっかり変わっていました。背丈は高くなり、青年らしい精悍な顔立ちで、私やレイチェルを見下ろすのです。仕立ての良い高価なスーツを着て佇む姿から、あの日の愛らしいニコラスを連想させることは出来ませんでした。けれども、レイチェルやお屋敷から失われた、ある種の神秘性が、彼にはまだ内在しているように思えました。それどころか、在りし日よりも、彼の姿は現実離れしたもののような気さえしたのです。かつて、私は彼を、退廃的だと形容しました。間違いなく、彼は滅びの美しさというものが備わっている、と私は確信したのです。

「イヴ」

 彼は人懐こい笑みを浮かべ、私の名を呼びました。声は低く、もう私の知ってるニコラスのものではありませんでした。

「久しぶりね、ニコラス」
「ああ、本当に嬉しいな。姉様と僕と、イヴ。この3人が揃うなんて、あの頃みたいだ」

 確かに、キングストンの姉弟と会えば、あのまどろみの時を思い出しました。けれど、魔力は潰えてしまったのです。幼き頃に夢想した、薔薇色の城も、麗しいお姫様も、どこにも居ないのです。

「せっかくだから、踊らないか」

 ニコラスは、跪いて慇懃に私の手を取りました。私は真っ直ぐに彼を凝視しました。そうしてこの数年間、幾度も反芻した問いを、改めて考えたのです。ニコラスは、あの晩に亡くなったのでしょうか。そうすると、今目の前に傅くこの綺麗な青年は誰かしら。銀の小枝は、本当にあったの? 

「喜ん、で」

 私は無意識に返答していました。ニコラスは嬉しそうに唇を緩め、立ち上がり、私の背中に手を回します。そうして強引に、ダンスホールの中央まで、私をエスコートしました。

「イヴ、ねえ、聞いて! 私は、貴女の言うことが正しいと思ったわ、だから」

 背後から、レイチェルの声が届きました。私は振り返ろうとしましたが、それも叶いませんでした。彼が、ひどく恐ろしかったのです。
 既に何組かの男女が踊っているところに、私達も加わりました。ちょうど曲が移り変わるところで、軽やかなワルツが始まりました。膝を軽く曲げ、形式通りの挨拶を済ませると、私達は手を取り合いました。恐らく、私の表情は強張ったものだったでしょう。そうして、恐怖を抱えたまま、私はステップを踏むことになったのです。

「レイチェルの婚約、本当に嬉しいわ」

 すぐ近くにあるニコラスの顔に、私は目を逸らしました。

「相手は商家の息子だよ。趣味で物書きなんかもやってるらしい」
「どこで知り合ったのかしら」
「僕は大して知らないな」
「レイチェルはどちらへ嫁ぐの」
「都会の方だね」

 どうしても会話を留めておきたくて、私は質問を浴びせました。しかしニコラスは辟易したように、溜息を吐きました。このようなお喋りの最中にあっても、ニコラスの踊りの才能は確かなもので、彼のリードに身を預けたならば自然と身体が動きました。

「それより、君は姉様と何を話していたんだ」

 私は戸惑い、一瞬動きが止まりそうになりました。けれどもニコラスのさりげないリードで、事無きを得たのです。

「久しぶり、だとか、たわいもない事よ」
「ふうん、イヴと姉様は本当に仲が良かったからね。僕も2人についていこうと、かつては必死だった」
「そうね、そうだったわ」

 ニコラスの手に力が加わりました。僅かな痛みに、私は顔を歪めます。

「でも、今は違う。可哀想なニコラスではない。もう17にもなった、来年は寄宿学校だって卒業する。僕は、君の知ってるニコラスでは、もう無いんだ」

 忌避していたことが、訪れた瞬間でした。ニコラスは険しい面持ちで、私を睨んでいます。きっと、彼は今でも、あの晩のことを覚えているのです。私とレイチェルの、ちょっとした悪戯が、彼を殺してしまった! ひょっとしたら彼はきっと、妖精に身を売り、私達に復讐する算段なのかもしれない! 
 その日のことは、これ以上は覚えておりません。ただ、冷たいグレーの瞳が、私の胸を貫いたこと、そればかりが頭に焼き付いているのです。