エニシダの娘


花に絡め取られた子どもは、白亜の塔にゆかねばならない。肢体に花の痣を宿し、その使命を果たすために。



植物標本

 エトが左腕にエニシダの花を咲かせたのは、彼女が齢14を迎えた朝のことだった。乳白の肌を覆う、エニシダを象った琥珀色の痣。曰く、花の病という。花の病に身を侵された者を、けして嘆いてはならない。神さまが口づけを落とし、祝福した証なのだから。




「エト、起きなさい。あと少しで塔へ着くわ」

 肩を揺り起こされて、エトの意識はゆっくりと浮上してゆく。烟る長い金のまつ毛を数度瞬かせれば、翡翠の双眸が顔を覗かせた。エトは、中性的な娘だ。細身の体躯はいたく不健康そうで、筋張った手足は憂いを纏う。少女とも少年ともとれる未完成な美しさが、彼女には備わっていた。
 エトはひとつ欠伸をすると、身を乗り出すように窓枠に寄りかかった。理知的な色を濃く落とした両まなこは、列車の窓から望める景色にそそがれる。霧でくゆる視界の向こう、高らかにそびえ立つ2対の塔の影がみえた。

「ねえ、母さま。あれが白亜の塔なのですね」
「お行儀良くしなさい。ほら、タイが曲がったじゃない」

 母は顔をかすかに顰め、彼女の胸を飾るループタイに手をかける。けれどもエトは何ひとつ気にかけず、ゆるやかに近づく塔を眺めていた。花の病を抱えたならば、白亜の塔に招かれる。そうして病が潰えるまで、故郷に立ち入ることは許されない。それが、古くからの習わしだった。
 明日から彼処で朝を迎えるのだ。どこか実感の伴わぬまま、エトは片手で頬杖をついた。

「さあ、できた」
「ありがとう、母さま」

 母の細い指が名残惜しそうに離れてゆくのを、視界の端で捉えた。

「私のエト。手放すのが惜しいけれど、これからは一人で上手く立ち回らなければ駄目よ」

 労わるような、さりとてどこか厳しさを孕んだ声色に、エトは母の方へ顔を向けた。母の言葉は、いつもある種の呪いのように降り注ぐ。エトは淡く笑み、そして極めて軽い調子で肩を竦めた。

「わかっていますよ」
「それならば、別にいいの」
「それで、あの、母さま。制服のことだけれど」

 幾つかの逡巡がしんしんと積み重なった後、エトは口を開いた。しかしそれも束の間のこと。すぐに母の明るい声に遮られる。

「ああ、よく似合っているわ。でも、そうね。髪はきちんと結んでいた方がいいわ」
「……はい」

 エトはあでやかに波打つ蜂蜜色の髪を掬い上げ、銀糸のリボンで一つに纏める。その様を、母はひどく満足気に見つめていた。

「こうして見ると、男の子みたいだわ。エメにそっくり」
「母さま、それよりももうすぐ駅に着きますよ。塔まで見送って下さるんでしょう、さあ行きますよ」

 折良く、終点を告げる放送が車内に響き渡る。もう塔は目と鼻の先で、大きな湖のほとりに、二つの尖塔が仲睦まじく並んで居る。このような辺境の駅に降りる者など、彼女らの他には誰もいない。エトは荷物を手早くまとめ上げる。永い旅路の伴侶は、たったトランクケースひとつばかりだ。軽やかにケースを掴み上げ、彼女はコンパートメントから躍り出た。
 駅を出ると、辺りはしとやかなしじまに包まれていた。周囲は荒涼とした木々に囲まれ、神秘的な空気さえ孕んでいる。すぐ向こうには藍色の湖が口を大きく開けており、凪いだ湖面に塔を映していた。

 --時が置き去りになってしまったような、そうだ、エメが亡くなった夜に似ている。死が、隣に横たわっているのだ。そのような類の静けさをたたえている。

 ここが気にいるだろうか。エトは自身に問いかける。白亜の塔。あまやかに花に病める子供たちの園。畏怖だ。けれど同時に、憧憬の念さえ抱いている。

「どうしたの、エト、立ち止まったりして」
「いいえ、なんでもありません。これからの暮らしに祈りを捧げていただけですよ」

 エトは曖昧に笑い、母の背中を追う。そうしてもう一度2対の塔を仰ぎ見た。