クレマチスの少年

 また、誰かやって来た。きっとあれは、エニシダの娘だ。



 幾人かのかしましい話し声が、書庫を通り抜ける。塔での暮らしゆきは退屈なものだったから、子どもたちは密やかな噂話を、飴玉を舌で転がすように楽しむのだ。シエルは鬱蒼とした視線を廊下に投げかけると、読みさしの本を書棚へ戻した。たわいもない、怪奇小説の類だ。さして面白いわけでもない。ただ惰性で読んでいたに過ぎなかった。思い返してみれば、彼の人生において心から胸躍らせたことなどなかった。いいや、一度はあっただろうか。ともかく、彼の胸の内には、常に鬱屈とした澱が沈殿していた。彼は自分のことが嫌いだ。父譲りのまっすぐな銀糸の髪や、薄く整った唇、左胸に彩られた、クレマチスの痣。彼を彼たらしめるもの、全てがいとわしく感じる。その影が、シエルを年より大人びたものにさせていた。
 シエルは張り出し窓に腰掛け、おもむろに外を眺めた。この地は、常に霧の天蓋が陽光を遮っている。この景色の中で暮らしていると、時折、そうっと目隠しされているような気分になった。だけれども稀に、霧が晴れることがある。その時、森や湖は金粉をはためかせたようにきらめきはじめるのだ。この光景は、存外嫌いではなかった。

「探したよ、シエル」
「なんだ、驚かせるなよ。ロランか」

 シエルは腰を浮かせ、来訪者に歓待の意を示す。シエルに声を掛ける者は、決まってロランしかいない。シエルの一つ年上で、人の良さそうな顔立ちをしていた。彼の大きすぎる黒縁の眼鏡は、ある種の親しみを与えている。そのため、誰からも慕われた。偏屈なシエルとて、例外ではない。

「新入りが来た話、知ってるだろう」

 弾むようなロランの声色に、シエルは苦笑する。ロランは、いつもこうだ。大抵のことを、面白おかしくしてしまう。上手くやっていけるのは、正反対の二人だからだろう。

「ああ、エニシダの女だろ」
「どうやら、君と同い年らしい」
「ふうん」
「なんだ、興味がなさそうだね」

 エニシダ。シエルは、一人その名を口で咀嚼した。ロランは芝居がかった仕草で、やれやれとため息をついてみせる。

「せっかくだから、顔でも拝みに行こうよ。どうせ、暇だろう」

 ロランの誘いに、シエルは渋々といった程で飛び乗った。どうせ、他にやることなどないのだ。

「まあ、いいけど」
「そうこなくちゃ」

 ロランが鮮やかに笑い声を立てる。快活が、彼の性分だ。そのどんぐりまなこを大きく見開き、ありとあらゆる楽しみを見つける。シエルにはそれが、羨ましいとさえ感じた。
 二人は肩を並べ、薄暗い書庫を後にする。

「どんな娘だと思う?  僕は、そうだな。おしとやかだと及第点。髪が長ければなお良しかな」
「俺は面倒を起こすやつじゃなければ、それでいいよ」

 空想ごとを並べてたて、二人は燭台で照らされた廊下を渡った。塔の中は複雑だ。幾つもの部屋が入り組み、階層をなしている。頂上まで登った者は、誰もいない。使う部屋など決まっているからだ。だけれども、もし塔の頂に届いたならば。天蓋に纏う星々を掴むことなど、造作のないことなのだろう。





「ネリーの話だと、食堂で見かけたって話だったんだけど。おかしいなあ」
 
 ロランは困ったように襟足を掻いた。あれからいろんな部屋を出入りしたけれど、手かがり一つ掴めやしない。ロランは疲れたと言わんばかりに、大仰な仕草で談話室のソファに座った。

「なあ、ピアノの音が聞こえないか」

 片割れの少年は、ただ、耳を澄ませていた。彼方から届く、か細いピアノの音。聞いたことがない曲だ。雨上がりの森の中、樹葉たちから滴り落ちる一雫のようなアルペジオ。心臓が、擽られるような気がした。たまらなくなって、シエルは駆け出す。

「シエル、どうしたんだよ!」

 後ろの方でロランの叫び声がした。構うものか。シエルは走った。廊下をうねり、階段を駆け、耳を頼りに走り抜ける。どうして、こんなにもピアノの音色が気になるのか。理由など、シエルにはわからない。ただ、彼の人を胸を打ち震わせるものが、そこにあったにすぎない。
 長い長い道のりの果て、シエルは今はもう使われていない、楽器室へ辿り着いた。錆びたドアノブに手をかける。いやに汗が滲んでいた。そうして開けた視界の先、埃を被りかつての栄華を散らした楽器達が、乱雑に放り置かれていた。しかし、部屋の中央にたたえられた、白いグランドピアノ。その脇に佇むのは、エニシダの娘だった。塔で交わる子供たちの顔触れは、嫌でも覚える。だからこそ、見知らぬ彼女こそが、エニシダの娘だという確信があった。けれどもどうして、彼女は男児用の制服を着ているというのか。

「ああ、勝手にピアノを弾いてしまってごめん。部屋に荷物を置こうとして、迷ってしまってね。入った部屋に見事なピアノがあったものだから、つい」

 彼女は落ち着いていた。麗らかな春の陽気を連想させる声だ。シエルはほうけたまま、動けずにいた。

「ああ、はじめまして。私はエト。今日付けで塔へ招かれたんだ」
「……その服装」

 ようやく振り絞ったシエルの声は、かすれていた。

「母の仕業だろう、届いた制服がこれだったんだ。あの人は私を息子として育てたがっていたからね」

 そう言葉を紡ぐエトの姿は、ちょうど彼女のためにあつらえたかのように、この部屋と調和していた。くつくつと喉を鳴らし、そうしてクレマチスの少年を見据える。

「それで、あなたのお名前は?」

 エトが微笑する。シエルの左胸の痣が疼いたのは、誰が為か。