スノードロップ

 神さまが愛するのは、それは大層うつくしいものなのだという。真白のレース、朝靄にかすむ蝶々、そして無垢な子供たち。神さまは一等、汚れのないものを好んだ。花の病は神さまの寵愛。だから、清らかな子どもの間のみ、花の病は宿るのだ。




 教壇に立つ老人は、熱心に言葉を紡ぎ続ける。これこそが自分の天命なのだと、高らかに宣言しているようだった。

「ですから、貴方達の本分はこうして物事を学び、教養を身につけ、健やかな魂を育むことなのです。そうして人々に慰めを施して……」

 彼の言葉が途切れたのは、講義の終わりを告げる鐘が鳴ったからだ。眉を顰め、教科書を閉じると、やおらな動作で教室を去る。子どもたちは退屈な時間から息を吹き返し、一斉におしゃべりを始めた。
 塔での過ごし方は、厳粛な規律に則って決められている。太陽が真上に登る刻まで、勉学に励まなければならない。古めかしい決まりごとの一つだ。

「健やかな魂って、なんだろう」

 遠ざかる老人の萎んだ背中を見つめ、エトは呟いた。健やかな魂。塔で暮らして一月余り立つエトでさえ、この言葉を何度聞いただろう。あまりに漠然とした言い方は、エトの胸にささやかな小石を投じた。一体、何をもって健やかと呼べるのだろう。
 中々机を離れないエトの側に、隣部屋のネリーが近づく。彼女は丁寧に編まれたおさげを揺らし、エトの顔を覗き込んだ。

「エトは難しいことばかり、考えるのね」
「ねえ、ネリーは自分が健やかだって思うかい?」

 そう問われて、ネリーは面食らった顔をする。そうして、うつむきがちにしばらく考えこんだ。

「わたくしは、そうね、花の病ということを除いては、とても丈夫だと思うの。でも、心のことになると、あまり自信がないわ。よく皆から鈍臭いってからかわれるし……」

 あまりに辿々しく、弱々しい物言いだった。自分のことが不甲斐なくなったのだろう、ネリーは途中ではっとしたように顔を上げる。滑らかなビロードの肌は、羞恥心のためか僅かに紅潮していた。

「それよりも、はやく次の講義室へ行きましょう」

 ネリーはぎこちない笑顔を作り、立ち上がるように促す。エトはこの弱気な友人を、一層憐れに感じた。

「そうだね、ごめん、変なことを聞いてしまって」
「ううん、大丈夫」

 エトは教科書を手に取り立ち上がる。その拍子に、教室の入り口近くに佇む少年と目があったことに気づく。シエルだ。真っ直ぐとした視線がかち合う。シエルの瞳は、例えるならば冬の夜空だ。果てなく透き通った、とこしえの藍。神さまが彼に花の病を与えたのは、きっとその星空に魅入られたからに違いない。エトは息を飲む。ふと、シエルの目が細められ、そうして顔を背けた。まるで、何事もなかったかのように、彼は隣の少年に話しかけていた。

「……もしかして、シエルと仲良し?」

 その始終を隣で見ていたネリーは、こわごわとたずねる。

「一度だけ、話したことがあるけど」
「だめ!」

 ネリーが珍しく声を張り上げる。ネリー自身、大きな声を上げたことに驚いた様子をみせた。唇はわななき、その顔色はどこか仄暗い。

「あの人、よくない噂ばかり聞くの」

 エトに詰め寄り、声を落として囁く。エトはもう一度、脳裏にシエルの姿を思い浮かべた。確かに、彼は近寄りがたい雰囲気がある。

「陰口は好まないな」
「本当よ!  シエルこそ、健やかな魂とはほど遠い人だわ。あの人は自ら、堕落しようとしてる。一昨年のことだってそう……」

 ネリーの鬼気迫る様子に、エトは思わず後ずさる。

「……一昨年?」
「ううん、何でもない。ごめんね、忘れて」
「……ネリーがそういうなら、わかったよ」

 さあ行こうと、エトは友人の背中に手をかける。ネリーはもう落ち着いたようだった。
 しかし、彼女の言葉が耳について離れない。シエルが、堕落しようとしている。エトは純粋に勿体ない、と思った。神さまに手ずから選ばれたというのに、それをどうして裏切る真似をするのか。

 私だったら、絶対に手放してなるものか。

 精巧に磨き上げられた、宵の双眸を持つ少年。神さまに愛されたのだから、こちらも尊崇を持って愛を返せばいいのだ。たとえ、蜜時がいつ終わると知れずとも。



***


 エトには、見覚えがあった。繊細な茎に垂れ下がる、小ぶりな白い花弁。それが、一輪彼女の部屋の前にぽつねんと置かれている。

「……スノードロップ」

 どうして、ここに。彼女はスノードロップを拾い上げ、鼻に近づけた。品の良い、楚々とした香り。エトは指で白い花びらをもてあそぶ。

「良かったね、それは歓迎の証拠だよ。新入りには、花を贈る風習があるんだ」
「そうそう、だから大切にしないとね」

 二人組の少女が、あどけない笑い声でさえずりながら、エトの後ろを通り過ぎて行く。揶揄われている気がして、良い心情ではない。しかしあまりに無邪気な声だから、エトは呆然と立ち尽くすほかなかった。




「朝起きたら扉の前に、花が飾られてたんだ」
「まあ、そうなの」

 時折、昼下がりにはネリーと二人だって塔の外へ赴くことがある。バスケットと小瓶を抱え、湖のほとりに腰掛けるのだ。湖の周りを深い森が取り囲んでおり、外へ出る手段は古色蒼然とした列車しか残されていなかった。もっとも、子どもたちは勝手に外へ出てはならない。こうして湖のそばに行くまでが、彼女たちに残されたなけなしの自由だった。
 エトは緩やかに腰を下ろし、静謐につつまれた湖面を見つめた。初めて母と塔へ訪れた日を思い出す。もう、はるか昔のことのように思われた。

「スノードロップでさ、花を贈るのがここでの風習なんだって?」
「ううん、わたくし、知らないわ」

 ネリーはきっぱりとそう言い放った。たおやかな動作で、小瓶から紅茶をカップへ注ぎ込む。湯気がふわりと立ち上がった。

「ふうん……。ああ、私は砂糖はいらないよ」
「そうなの、ごめんなさい。でも、不思議よね。スノードロップなんて」
「どこの誰がやったんだろう」

 エトが静かに呟いた。ネリーからティーカップを受け取り、喉元に流し込む。ネリーは戸惑いを隠そうともしなかった。

「犯人探しを、するつもり?」
「まさか、犯人だなんて滅相もない。私を歓迎してくれた証だろうしね」
「そう、そうよね」

 おそらく、彼女は面倒ごとは避けたいのだろう。ネリーは安堵で胸を撫で下ろす。その様子を横目に捉え、エトは苦笑した。犯人探しだなんて、全くなんてネリーは大げさなのだろう。

「私の故郷は、スノードロップで香料を作ってたんだ。もし材料が揃っていたなら、君に香水でもプレゼントしようかな」
「それじゃあ、一輪だと足りないわね」

 おや、と思った。けれどもエトは違和感をうまく飲み込む。ネリーは良き友人だ。男の格好をしたエトを認め、親しくしてくれている。気の弱い彼女のことだ、ここで言及してしまったのなら、顔を曇らせてしまうに違いない。
 代わりに、エトはやわく相槌を打ってみせた。

「……そうだね」

 ネリーにはこれ以上聞くことは見込めないだろう。だとしたら、誰に尋ねれば良い。エトは、宵の眸を持つ少年を思い浮かべた。
彼の友人曰く、シエルは本の虫だという。書庫の張り出し窓、そこがシエルの定位置だった。彼は頬杖をつき、退屈そうに本を読んでいた。ページをめくるたびに、紙と紙が擦れ合う音がひびく。

「シエル、ご機嫌はどうだい」
「……エニシダ」 

 努めて鮮やかに挨拶をすれば、返ってきたのは無骨な一瞥のみだった。エトは怯みも臆しもしない。むしろ、彼の瞳を眺めたいとさえ思った。

「私にはちゃんと、エトって名前があるよ」
「誰からここのことを聞いた」
「ロランからだよ」

 シエルは額に手を置き、束の間ため息をつく。窓枠に寄りかかり、悩ましげな顔をする彼の面差しは、一種の絵画を連想させた。
 シエルはエトに向き直り、不機嫌そうに口を開く。

「それで、何の用だ」
「君、ここの塔の慣習を知ってるかい。新入りに花を贈るっていう」
「……ああ」
「私の部屋にスノードロップが置かれてたのだけれど、何か知っていることはないか?」

 瞬きほどの間、シエルは訝しげに眉をひそめた。そうしてその後、何か思いついたように、口角を上げる。悪戯めいた彼の笑みを、エトは物珍しそうに見つめた。

「どうして俺に」
「まだ、ネリーくらいしか親しい人はいないから。その彼女も、そんな慣習は知らないって言うしね」

 シエルは値踏みするような視線をエトに向けた。胸の内側がひりつく感覚を覚える。

「知ってる」
「本当に!」
「でも、ただで教える気はない」

 その言葉に、エトは身構えた。けれども、その必要などなかったと気付くのは、数秒後。彼の望みは、本当にたわいのないものだったのだ。

「そうだな、ピアノ……。もう一度、ピアノを弾いてくれたら、教えてやるよ」

 彼の目は、たしかにきらめいていた。

 ここに来たのは、初日以来だ。出入りは無いようで、荒れたままに楽器の類が放って置かれている。かつては、音楽室として使われていたのだろう。
エトは真ん中に据えられたピアノを前に座っていた。重厚な蓋を開け、鍵盤に指を置く。不思議と、このピアノだけは手入れされているようだった。鍵盤を叩けば、気持ちの良い音がこだまする。

「恥ずかしいな、あまり人前でピアノを弾く機会なんてなかったから」
「誰から教わったんだ」
「エメ……私の兄に教わったよ」

 エトは自らの兄の顔を思い出そうとしたが、それは徒労に終わった。ただ兄が死に招かれた日の、冴えた空気の感触だけが、妙に生々しく残っているのだ。冬の日、星が天幕を覆い、母は兄の亡骸に縋り泣いた。
 それらを振りほどきたくて、エトは首を横に振った。

「それにしても、君が音楽に造詣があるとは意外だな」
「知り合いのせいでね」

 シエルが肩を竦める。

「ふうん、良い知り合いだね」

 エトは鍵盤に目を落とし、指を滑らせた。彼女が知っているのは、兄が弾いていた曲だけだ。それでも、完璧に覚えているわけではない。もしかしたら、数年の時を経て、全く違う曲になっているのかもしれない。だが、それでよかった。エトにとってのピアノとは、自分を映す鏡なのだ。

「さて、始めようか。けれど、本当に私のピアノでいいのかな」
「お前のピアノが、好きだから」
「そういうこと、他の女の子に言ったら素敵だと思うけどね」




 扉の前に花を飾るのは、歓待を示すものではない。元々は、密かな文通の役割を果たしていた。恋う者に、相応の花言葉を添える。それが転じて、子どもたちの悪戯の道具として使われるようになったのだ。

 スノードロップの花言葉は、友を求める。じゃあ、他の意味は?

 シエルの皮肉めいた笑みを憶う。スノードロップは希望の象徴だ。けれどももう一つ。あのしとやかな花は、死の象徴なのだ。
では、どうしてネリーは知っていたのだろう。エトの部屋に飾られていたスノードロップは、一輪だけということを。


***


 振り返ってみれば、ネリーはいつだって特別に焦がれていた。幼い頃から好んでいたおとぎ話のお姫様は、自然と王子様と惹かれ合う。彼女たちは、みんな特別なのだ。だからネリーが花の病を患った時、彼女は幸福そのものだった。神さまに選ばれたのだと。背中に咲いたスノードロップ。奥ゆかしく、楚々とした彼女には、似合いの花だ。
 けれど、どうしてだろう。塔に来てからの日々は、鬱蒼としたものだった。ひどく閉鎖的な場所だったからかもしれない。塔の子どもたちは、薄鈍いネリーを馬鹿にする。いじめというほど酷くはないが、揶揄いというには耐え難い。それでもネリーが一途に忍んでいた理由は、王子様に起因していた。夢見がちな彼女は、いつか自分を迎えにくる誰かを、待ち望んでいたのだ。


「ねえ、ネリー。夜分遅くに失礼するよ」
「……どうしたのかしら」

 エトは憂鬱な足取りで、ネリーの部屋に入った。彼女の部屋はよく整っており、かすかに柔らかい清涼な匂いを感じる。ネリーはあどけない顔で寝台に腰かけていた。

「私は君のこと、とても良い友達だと思っているんだ」
「ふふ、どうしたの、いきなり」

 慎重に、ネリーへ近づく。当の彼女は、あまりに軽やかに微笑んでいた。

「だから、あまり誤解せずに聞いてほしい」

 衣嚢からスノードロップを取り出してみせる。ネリーの笑顔が強張った。彼女の視線は、そのたおやかな一輪の花に注がれていた。エトは深呼吸し、慎重に言葉を選ぶ。

「これを置いたのは、君だね」
「知らないわ」

 ネリーの顔は、気の毒なくらい青ざめていた。エトは追及の手を緩めない。

「ネリー、どうして私の部屋に置かれたスノードロップが、一輪だけだと知っていたんだ」
「エトの部屋を通りかかる時に見かけたのよ。隣の部屋だもの、おかしくはないでしょう」
「けれど君は、私がこの話を持ちかけた時、知らないふりをしたね。それってつまり、贈り主を当てられてしまったら、困ることがあるみたいだよ」

 瞳がこぼれてしまいそうなほど、ネリーは目を見開いてみせた。そうして、ゆっくりと口を開く。

「……だって、仕方ないじゃない」
「どうして」
「エトは、わたくしの王子様なの」

 ネリーは立ち上がり、エトの手からスノードロップを奪い取った。

「初めてエトに会った時、男の子だと思ったわ。とても綺麗な男の子。でも、男の子なんかより優しくて、かっこいいの。こんなの、王子様みたいでしょう!」

 胸にスノードロップを押し当て、彼女はうつむいて言葉を紡いだ。ゆるやかに感情の波にのまれるように、段々と鈴なりの声が大きくなる。ネリーは、激昂しているのだ。

「ずっと、憧れていたわ。お姫様が幸せになる場面を。だからエトと仲良くなって、そうすれば幸せになれるんじゃないかって。でも、シエルが」
「……シエル?」
「シエルは、いつだってみんなの注目を攫うわ。特別なのよ。そんなの、ずるいわ! 一等神さまに愛されたシエルが、私の王子様に近づくなんて!」

 叫声が破裂する。ネリーは大きく肩を上下させた。息を切らしているのだろう。宥めようと近づけば、ネリーの白魚の手で振り払われる。エトは躊躇しながらも、話を試みる。

「けれど何故、こんなことをしたんだ。私は怒ってないよ、こんなの可愛らしい悪戯だとさえ思っていた。でもね、ネリー。死を願われているなら、話は別だ」
「……ちょっとした自己満足で、警告のつもりだったの。わたくしの王子様にならないなら、いっそのこと。でも、すぐに後悔したわ。馬鹿な嫉妬だったの」

 ネリーの虚ろな視線が、エトを捉える。いつのまにか、部屋の香りは色濃くなっていた。噎せてしまいそうな甘い匂いに、エトは顔を歪める。

「ごめんなさい、エト。やはり、わたくしは、友達というものがよくわからないの。ごめんなさい……」

 ネリーの瞳から、露が零れ落ちる。途端に、あたりはしじまに包まれた。さめざめと泣くネリーに近づき、エトは彼女の細い肩を抱く。甘い匂いは、ネリーに寄るほど、強くなった。懐かしい感覚に襲われる。ややあって、これはスノードロップの匂いなのだと、ようやく気がついた。

「……エト?」
「私は、君の良き友達でありたい。そう願っているんだ。君がお姫様だったとしても、そうじゃなくても構わない。ネリーと、友達になりたいんだよ」

 淑女を硝子細工のように、繊細に扱いなさい。それが、紳士の、エトの務めよ。

 脳裏で、繰り返しちらつくのは、母の呪いだ。ネリーは王子さまを望んでいる。ならば、そのように振る舞うのが、エトの役目なのだ。この友人に、赦しを与えなくてはならない。エトは柔らかく彼女の背中を撫でた。次第に、ネリーは落ち着きを取り戻した。甘やかな香りも薄らいでいく。

「さあ、夜も遅い。もう、寝よう」

 ネリーはエトの肩に顔をうずめていたが、やがては小さく頷いた。

 塔の子どもは、まさしく花だ。少しの憂いでさえ、儚くも朽ちてしまう。外から隔たれたこの歪な温室では、健やかな魂を育むなど、とうてい及び難いことのように思われた。