不完全な青、世界の終わり

 もう、私には彼しかいなかった。彼しか、残されていなかった。





 目的地がどこなのかはわからない。東に向かっている事だけは確かだった。街には伊織君のような軍服の人を見かけた。そのたびに、見つからないように身を潜める。よく知ってる街を、知らない人が歩きまわっている。複雑な心境だった。

「そろそろ、着くよ」

 彼が言った。鉛色の壁が見える。街の東端に辿りついたようだ。東端ともなれば建て物も少ない。私は出来る限りさっきのことを思い出さないようにしていた。

「ここは……」

 大分開けた場所に出た。マンホールが真ん中にぽつんとあるだけで、何もない。ここに来るのは初めてだった。

「地下通路を通って街を出る」
「地下通路……?」
「そう。物資の運搬はこの通路を利用しているんだ」

 彼はマンホールの蓋を簡単にずらすと、中に入っていった。私は穴を覗いてみる。暗くて、底は見えなかった。唾をのむ。意を決して、梯子に足をかけた。黙々と下へ降りていく。梯子を握る手が疲れかけた頃、ようやく地に足がついた。それと同時にぱちりと音がして、視界が明るくなる。無機質な白い壁と床。ここがマンホールの中とは到底思えなかった。

「この街のあちこちに地下通路は通っている。そして全ては一本に繋がっているんだ」
「外に、本当にでれるの」
「上手くいけば、だけど」

 そうしてまた歩き始めた。足はあと少しで限界だった。今日はいろんなところを走り回った気がする。通路は迷路のように入り組んでいた。

「この街は」

 唐突に、彼が話し始めた。返事をする気力も、今の私には残っていない。

「全てが、国のために作られたんだ。ある病を発症した人々を集めて、一種のサナトリウムのようにね。研究者たちは、君たちをずっと監視していた。朝倉も、その一人だ」

 ああ、朝倉さんはどうしているんだろう。彼はまだ話を止めようとしなかった。

「国からの援助を受けて、この街は成り立っている。けれど、一か月前に撤去命令が下された」

 だから、小学校が廃校に決まったんだ。校長先生の顔がぼんやりと浮かんだ。

「外の世界では戦争が行われていた。その、戦争が終結したんだ。そうすると、この街は用済みになる。援助費は莫大で、国の予算は限界だった。だから国はいち早くこの決断を下したんだ」

 戦争。初めて、その事実を知った。いいや、忘れていたんだ。平和に慣れ過ぎていて。

「この街は巨大な研究施設なんだ。国は獣化症候群を軍事に利用しようとしていたんだよ」

 やっと扉が見えた。その扉の傍に、誰かが居た。

「あれは……」

 彼が呟く。その人は彼によく似た瑠璃色の双眸を持っていた。顔立ちも、彼にそっくりだ。ただ一つ違う所は、金髪に凹凸のある身体だった。その人は私達に気づくと、片手をふった。

「やっぱり来たんだね」

 それは明らかに律さんの声だ。律さんはオッドアイではなくなっていたし、特徴的な眼鏡もしていなかったし、髪もおろしていた。律さんと思わしき人は、私達の方へ近づいて来た。つい、彼の顔と見比べてしまう。多少の差異はあれど、よく似ていた。

「陸ちゃんは驚いて声も出ないみたいだねえ。あたしだよ、小山内律だよ」
「律、さんですか。その、目……」
「カラーコンタクト、両方入れてるとはいってないし。ほら、そこに立ってる誰かさんと同じってつまらないでしょ」

 律さんは静かに笑んだ。

「そろそろ種明かしをしよっか」

 気取ったふうに、わざとらしく踵からつけて歩く様は、探偵のようだった。

「まず獣化症候群についてからだねえ。わかりやすくいえば、これは遺伝性の病気なんだ。代表的な症状は身体能力の異常な向上、そして理性の崩壊、身体の変化。ばっさりいえば、獣化症候群になった人、個体っていうんだけれどね、個体は人を簡単に殺せちゃうような力を持ってしまう」

 海の姿が脳内でフラッシュバックした。吐きそうになるのをこらえる。

「これを社会に放っておくのは危険だから、ここに個体は皆隔離することになった。見つけ次第にかたっぱしから、街にいれてく。でも、隔離だけじゃない。獣化症候群を戦争に利用する計画があった。理性があってその力を制御できれば、いい兵器になるって国で考えたんだろうねえ。危ない戦場に、兵士を投入しなくて済むようになるから。漫画みたいな話でしょ、でも実際に、兵器が出来上がったんだよ」

 律さんはいきいきとしていた。次第に早口になっていくのを、自身でも気づいているのだろうか。律さんは人差指で、彼を指した。

「人型戦争兵器。包丁で刺されたって、毒があったって、ミサイル喰らったって、怪我一つしない。コードネームは観月」
「そ、んな」
「本当、漫画みたいだけど本当の話。普通の個体の何十、何百倍もの能力を持つ。そんなあたしは、彼の予備でありコピー。オリジナルを真似して作ろうとしたら、性能も大分おちてしまった用済み」

 律さんが自嘲気味に笑った。

「戦争は終わったから、制御できるかも危うい強大な戦力はいらない。でも、観月は制御できる最高傑作であり、国の切り札だから処分するのももったいない。そこで、一部の個体と観月を除く獣化症候群発病者を切り捨てた。一部の個体っていうのは、特別個体っていってね。見当ついてるかもしれないけれど、陸ちゃん、君だよ」

 律さんはさらに饒舌になっていく。早送りしてるみたいだ。私はそれを呆然と眺めていた。人事みたいに。

「薬が変わったでしょ、それは特別個体とそうじゃないのを振り分けるためのものなんだよ。今までのは単に症状を抑えるものなんだけどねえ。特別個体以外は、症状が進行する」

 目眩がした。ひどく昨日が懐かしく思える。

「……あらら、智一まできちゃったねえ」

 振り向くと、朝倉さんがいた。朝倉さんは、いつも急に現れる人だ。ねえ、朝倉さん。これまでのは全部ドッキリって言ってよ。
 崩壊した日常はもう、戻らない。知っているんだけどね。