不透明な人々、駆け出す私

 例えばの話、もし私が全て投げ出したら、彼は受け入れてくれるのだろうか。





 朝倉さんの所へ行こうと思った。中田さんのことを相談しよう。朝倉さんを、私は信じているから。
 朝倉さんは街の最北端にある研究所に居るはずだ。大抵、研究室で朝倉さんは暇そうにしている。何を研究しているかは、実を言えばよくわからない。ただ、街を大きく動かしているのは、研究所だった。私は走って、そこへ向かう。

「あら、寺井さん」

 道中、見知った影を見つけて立ち止まった。暑さとは違う汗が、首筋を伝う。私は凍ったまま動けなかった。その人物は、私の姿を認めると、にっこりと笑んだ。

「……白樺、さん」
「昨日の今日で、また会うとは偶然ね。どこへいくのかしら」

 白樺さんの姿は鳥肌がたつほどに、妖艶だった。私は何も言葉を返すことができない。

「もしかして、私の忠告を守らずに朝倉智一の所に?」

 心臓が飛び出るかと思った。私はやっとのことで、口を開く。

「白樺さんには、関係ないと思いますけど」
「そう」

 白樺さんはそれだけ言うと、また歩き始めた。すれ違う間際、私にだけ聞こえる声で、耳打ちされた。

「三日後の午後9時。小学校の屋上で待ってるわ」

 私が振り向いたときには、既に白樺さんの後姿は小さくなっていた。午後、9時。それは外出禁止時間だ。何故、よりによってその時間を指定したんだろう。白樺さんは謎が多すぎる。

「……行かなくちゃ」

 私は自分に言い聞かせた。はやく、朝倉さんに会うんだ。

 足を動かす。あと、少し。この道をずっといったら、すぐはずだ。研究所は高台の上にある。真っ白な建て物だ。鉛色の壁を背景に、その白は目立っている。私は研究所に駆けこんだ。

「朝倉さん、朝倉さんはいますか!」

 研究所の受付に飛びついた。受付の女性は顔馴染みで、私の顔に気づくと「ああ」と笑った。しばらくそこのベンチで待つように指示されて、大人しくそれに従う。この時間は朝倉さんの休憩時間の筈だ。きっと、会ってくれる。
 時間を持て余していると、奥の扉が開いた。朝倉さん、ではない。すらりと背が高い女性だ。金髪に、左右で違う瞳の色。右が赤で、左が青。とても印象的な容姿だ。左の瞳は、彼によく酷似していた。フレームの大きすぎる眼鏡をかけた女性は、研究者というイメージからかけ離れ過ぎていた。金髪の髪を団子にしてまとめている。
 女性は私に快活そうに笑いかけて、片手をあげる。

「智一を待ってるんだって?」
「は、はい。そうです」
「ははあん、彼女か。あいつもロリコンだなあ」

 女性は私の隣に何気なく腰掛けた。眼鏡で気づかなかったが、顔立ちはすっきりとしていて整っている。

「彼女じゃありませんよ」
「え、そうなの? なんだあ」
「おい、律!」

 扉が開いた。今度こそ、朝倉さんだ。いつも以上にぼさぼさな髪の毛で、三白眼をかっと見開いている。律、と呼ばれた女性は子供みたいに笑って、大げさに肩をすくめてみせた。

「怒りっぽくないのはよくないなあ。あ、少女。あたしは小山内律。智一の同僚だよ」

 小山内、律。小山内さんは、ひょいと腕を私の方へ差し出す。私は、躊躇しながらもそれをとった。
 小山内さんは子供みたいな人だ。たぶん朝倉さんと同年代くらいなのだろうけど、纏う雰囲気とか仕草が幼かった。小山内さんはにっと歯を見せて笑うと、人差指を私につきつけた。距離が近くなる。息遣いを感じられるほどに。

「時に少女、名前は?」
「寺井、陸です」
「ふうん、陸ちゃんね。あたしのことは律って呼んで」

 そう言って小山内、いいや律さんはくいっと眼鏡をかけなおした。視線がつい律さんの瞳にいく。左右で違う瞳の色。吸い込まれてしまいそうだった。

「これ、カラーコンタクトなんだよ」

 私の視線に気づいたのだろう、律さんはそう答えた。さらに私と律さんの距離が近くなる。互いの鼻の先に触れそうだった。

「ちなみにこの髪の毛は染めたんだ。誰かと同じってつまらないでしょ?」
「いいかげんにしろ」

 朝倉さんが律さんの首根っこを掴んで、無理やりたちあがらせる。助かった。密かに胸をなでおろす。

「で、こんなとこまできて俺に何か用だったのか?」

 朝倉さんが不思議そうに尋ねる。中田さんのことを、聞いてみるつもりだった。もちろん、朝倉さんを信じている。けれど、白樺さんの口ぶりでは朝倉さんも街の秘密を知っているのだろう。私は決心を固めた。

「聞きたいことがあって」

 ちらりと律さんを一瞥する。律さんの前で話してよいことなのか、迷った。

「何だ?」
「この、街のことです」

 朝倉さんの目が見開かれた。やがて、苦々しげに口を開く。

「……場所を変えよう」
「ねえ、その話ってあたしも混ざっちゃダメかなあ」

 突然の申し出に、私は驚いた。拒否する理由は特になかった。律さんも朝倉さんと同じ研究者なら、ある程度は街のことについて詳しいのかもしれない。戸惑う私に、朝倉さんが言った。

「別にいいけどよ」
「ラッキー! 書類整理のお仕事、サボりたかったんだ」

 朝倉さんが呆れているにも関わらず、律さんは声を弾ませていた。どこまでもマイペースな人だ。
 とりあえず、私達は部屋を移動することにした。朝倉さんが使っている小さな休憩室があるらしい。研究所は外観と同じくらい中も色が無かった。壁も、床も、照明も全て白い。複雑な廊下を曲がったり昇ったりしていって、ようやく休憩室についた。たぶん私一人だったら迷っていた。研究室は三人入ればやや狭く、その上物が乱雑にちらばっていた。研究者の部屋とは、そういうものなのかもしれないが、これは明らかに度が超えていると思う。朝倉さんはバツが悪そうに頬をかいた。

「まあ、適当に座ってくれ」
「……座る所がないんですけど」
「……すまん」

 結局私は立ったまま話をすることになった。律さんは無理やり座るスペースを確保し、朝倉さんは唯一ある椅子に腰かけている。
 話を切り出す間際、ほんの少しだけ目を瞑る。大丈夫、朝倉さんは私の味方だ。大丈夫、きっと。

「最近、いろいろなことが私の周りで起きました。例えば、私の隣に住んでいる、中田さんがいなくなったこととか」

 まるで教科書を朗読するみたいに、すらすら言葉が出てきた。朝倉さんは顔色一つ変えずに私の話をじっと聞いている。頭の中に、白樺さんの姿がよぎった。

「中田さんの、旦那さんの様子も変でした。薬の服用義務とか、定期健診とか、街には規制と義務がたくさんあって。今までずっと街のことを考えてて、私はすごくこの街のことが怖いです」

 律さんは私の話を聞いているようで聞いておらず、しまいには舟をこぎだしていた。たぶん、本当に仕事をさぼりたかっただけなんだろう。私はそれを無視してさらに続ける。朝倉さんの顔はもう怖くて見ることができなかった。信じている、はずなのに。

「朝倉さんは、何か知っているんじゃないんですか。この街の秘密を」

 白樺さんは言った、街の状況は変わりつつあると。それが今回の中田さんの一件なら、私だって何が起きているか知る権利がある筈だ。

「俺は、さ」

 小さい声だった。でも、確かな朝倉さんの声。

「本当に、お前たち姉妹には普通に暮らしてほしいと思ってんだ」
「普通、って。この街の生活は普通じゃないと思います」
「だから、街の秘密とかお前には無関係なことなんだよ」

 言葉の裏で「わかってくれよ」と懇願しているような気がした。それでも大人しく食い下がることなんて、できない。

「教えてほしいんです。わからないままなんて、嫌だ」
「とにかく、だ。もうやめてくれ。秘密に近づくのは」

 肩を掴まれた。少しだけ痛い、と思う。朝倉さんの顔と向き合う形になった。朝倉さんの顔は険しく、けれど切なそうでもあった。

「忠告だ。誰に何をふきこまれたのかは、おおよその検討がついている。もうそういうのには関わらないでくれ」

 私は何故か頷くことができなかった。朝倉さんは肩から手を放すと、律さんを叩き起こした。律さんは欠伸をして、私と朝倉さんを交互に見る。

「もう話は終わったの?」
「ああ。悪いが陸を外まで送ってきてくれ」
「ラジャー! じゃあ行こうか、陸ちゃん」

 律さんに連れられて、私は休憩室を出て行った。律さんはどこまでも陽気で、私の暗い心境とは正反対に、一方的に自分のことを語り始めた。それは好きな食べものとか、趣味とかのことで、私は話半分にそれを聞いていた。朝倉さんのあの表情が、頭にこびりついて離れない。

「あっ、そういえばさあ」

 受付まで来たところで、律さんはいきなりそれまでにしていた好きなジュースの話を打ち切った。

「陸ちゃんって、好きな人はいるの?」
「……いませんよ」

 私には海がいるから。律さんは「ふうん、そうなんだ」と呟いてにんまりと笑った。

「陸ちゃんはそういうの疎そうだから、言っておくけど、気をつけてね」
「え?」
「歪んだ好意は人を滅ぼすよ」

 律さんはそう言って、踵を返した。これも、忠告なのだろうか。考えなくちゃいけないことが多すぎて、混乱する。不透明になる事実ばかりだけど、ただ一つ確信したのは、やはりこの街で何かが起こっているのだ。