人の理

「ペネロピは、筋がいいね。これじゃあ、すぐに俺を追い越してしまうよ」

 師匠が褒めてくれるのが、好きだった。調合がうまくいけば、大きな手のひらが、わたしの頭を撫でる。色素の淡いアッシュの髪も、いつも緩んだ唇も、透いたアメジストの双眸も。師匠を形作る、全てがお気に入り。すこし、軽薄なところが傷だけれど。ううん、そんなこと関係ない。それすらも、愛おしい。
 晴れた日には、魔法の姿見で花の都へ。ヘクセの店に、はじめてわたしの商品が並んだ日。上機嫌の師匠は、わたしに紫色の頭飾りを買ってくれた。気恥ずかしくて、一度たりともつけたことはないけれど。今でも、わたしの宝物入れに仕舞ってある。

「きっと、ペネロピなら。賢者の石も、目じゃないね」
「でも、それは御伽噺の中の話でしょう?」

 星が瞬く頃合いなれば、決まってお茶会を開いた。大好きな甘いものをつつきながら、秘密のお喋りに興じる。いつだって、師匠の繰り出す話には、耳を傾けずにはいられないのだ。

「妖精の国には、賢者の石だってあるという噂だけど」
「嘘ばっかり!」
「ペネロピは手厳しいね」

 わたしは苦い顔で、ミルクティーを流し込んだ。師匠はすぐにわたしを子ども扱いする。けれども、彼はわたしの不満なんて御構い無しだ。しいっと人差し指を唇にあてがい、瞳を細める。

「ここだけの話。俺は昔、その噂を聞きつけて、妖精の国に盗みに入ったことがある。失敗してしまったけれどね」
「……それで、賢者の石はあったの?」
「おや、やっぱり気になるんじゃないか」

 師匠が鮮やかに揶揄うものだから、わたしは面白くなさそうに顔を背けた。

「じゃあ、ペネロピは賢者の石を、何だと思う?」
「……病を治したり、あらゆるものを金に変えたり、そういうものでしょう?」
「そうだね、あとは?」

 賢者の石。錬金術師たちが血眼になって探す、この世の奇跡。ゆるゆると頭に思い描くのは、傷ひとつない宝石の形をしていた。わたしは、きれいなものを作りたくて、錬金術師を志したのだ。

「すごく、きれいで、うつくしいものだと思うの。ため息をついてしまいそうになるほど」
「なるほど、ペネロピらしい答えだ。でもそうだな、ご名答」

 ぱちんと軽やかに指を鳴らす仕草は、師匠に似合いのものだ。

「賢者の石は、本当にあるんだよ」
「それって、どんなものなの?」
「虹色に、煌めいているのさ」
「なんて綺麗なものなの!  わたし、手に入れてみたい!」

 まだ見ぬ美しいものに、心を焦がせ、わたしはうっとりとする。虹色に輝く石なんて、きっと気にいるに決まっている。

「駄目だよ、ペネロピ。だって、俺だけの賢者の石なのだから」

 そう、慈しむように言った師匠は、もういない。呪いで、醜く酷く死んでいった。

「いまいちど、賢者の石を、この手に」

 彼が、最後に吐き出した言葉を、わたしはずっと忘れないだろう。


「ペネロピ、起きてください」

 低い、男の人の声。誰だろう、よく馴染んだ声だ。未だに、思考はまどろみの中に、置き去りにしてしまったようだ。重い瞼を開けて、体を起こす。アッシュの髪、アメジストの瞳の彼が、視界に入って。

「……アルケー、師匠」
「ペネロピ?」

 懐かしい名を紡げば、はっとして意識が鮮明になる。そうだ、師匠はもういない。だとすれば、この目の前の男は。

「……マギ。ごめんなさい、少し、寝惚けていたみたい」

 わたしは、マギがいつも通りの、冷めた表情を期待していた。何も気にせずに、ただ嗜めるだけだと。けれども、マギは眉根を寄せて、ただわたしを見つめるのだ。リトル・シレーネを訪ねてから、彼は時折このような顔をする。物言わず、唇を引き締めて。無意識に、わたしは目を逸らす。

「……ラストが、来ています。応接間にて、待たせてありますが」
「そう、ありがとう。今すぐ向かうわ。支度をするから、部屋から出てちょうだい」
「わかりました」

 わたしが命じれば、マギは大人しくそれに従うだけだ。規則正しい足音の後に、扉がぱたんと閉まる。そうして、鬱屈とした溜息を吐いた。マギは、たしかに変化している。わたしの、望むがままに。あとは、妖精王に差し出してしまうだけでいい。彼女に甘く微笑み、傅き、愛を示す。空ろの瞳は熱に浮かされ、そのうつくしさは本物に。マギに課せられたのは、妖精王を誘惑すること。そのために、ありとあらゆる娘たちと恋に興じたのだ。そうして、妖精王がマギに心を奪われたとしたら。わたしは、まことの喜びを得るのだろう。


 手近な服に袖を通し、簡単に身支度を整える。そうして居間へ赴くと、ラストがソファに腰掛け、ひらりと片手を上げていた。変わらぬ彼女の姿に、安堵する。

「ラスト、またマギを貸して欲しいの?」
「ううん、頼まれごとがあるんだ。妖精王からね」
「……頼まれごと?」

 わたしの声音に、どこか仄暗いものが混じる。ラストは頷いた。

「この前ふらっと、妖精の国に遊びに行ったら、彼女に捕まっちゃってね。というのも、あたし、今気になる人が妖精の国に滞在する旅人で」
「待って!  それで、頼まれごとっていうのは?」

 話を終いにされたラストは、つまらなそうに肩を竦めた。そして、わたしに金箔の封筒を差し出した。そこに描かれた、月と星が複雑に重なり合った紋様は、嫌になるくらいに見覚えがある。

「はい、お城への招待状。ペネロピに、渡しなさいって」

 渋々、わたしはそれを受け取った。中身を見れば、彼女らしい几帳面な筆で書いてある。どうやらわたしは、次に月が満ちる夜、彼女の愉快な晩餐会に招待されているらしい。

「呪いをかけたのは、妖精王なのに。一等美しいものを持ってこいなんて、皮肉めいた話だよね」
「きっとあの女、わたしを城へ招いて、呪いに足掻くのを楽しみたいんでしょうね」

 こうした誘いは、はじめてではない。たくさんの綺麗なものを用意して、彼女はわたしを待っている。それらに心動かされない様に、決まって妖精王は笑みを綻ばせるのだ。

「行くの?」
「この招待状には、そういう魔法がかけられてるでしょう。行くしかないの」
「ホムンクルスも連れて?」

 どきりと、心臓が跳ねた。ラストの瞳は楽しげに、弧を描く。

「ずいぶん、格好良くなったね。魔女のあたしでも、くらりときちゃうくらいに」

 薄々、気づいていた。マギが、わたしの手を離れていることに。

「まだ、完璧じゃない」
「それでも、妖精王の気を引くにはとびきりの魔性を秘めてる。だって、アルケーに似ているもん。ホムンクルスの方が、整っているけれど」

 アルケー。たったひとりの、わたしの師匠。妖精王にかけられた呪いの果て、遠つ国に旅立った。わたしは、ディーウァを許せない。だって、彼女は。

「もしかして、ホムンクルスを手放すのが惜しくなった?」
「……どういう意味?」
「さあ、ペネロピが考えてごらん」

 ラストは、挑戦的な眼差しをわたしに遣ってみせる。わたしは落ち着いて、平静を努めた。声音に、感情を滲ませないようにして。

「わかったわ、そろそろ頃合いでしょうね。マギを、妖精王に差し出すわ」

 ラストはわずかに目を見開いた後、くすくすと笑い声を漏らす。

「人間っていうのは、大変だね。たくさんのものに雁字搦めになって」
「魔女や魔法使いが、淡白すぎるの」

 招待状を掴む力が強くなる。くしゃりと音を立てて、皺になってしまった。マギ。わたしは彼を、私利のために作り上げ、思いのままに操り、その次は。妖精王に差し出す。これまでは、それが正しい事なのだと疑わずにゆけた。しかし、マギに心が宿りつつある今では。
 いかに錬金術師といえども、彼女らほどの長い時を生きることはない。所詮、わたしは人間だ。だから、欠けら程の情というものは、わたしにだってあるのだ。