人魚の姫君

 泉に棲まう人魚の姫君が、山をひとつ跨いだ国へと嫁いでいった。尾鰭を失くし、すべらかな人の足を手に入れて。人魚の理を捨て、人の理を得た彼女。果たして、まことのさいわいとなり得たのだろうか。
 ラストの告げた、素敵な情報とは、概してこのようなものだった。恐らくは、伯爵嬢をマギの虜としたならば、もっと詳しい報を得ることが出来たのだろう。けれども、あの夜、わたしは自らの手で恋愛劇を締めくくらせてしまった。そういったことを鑑みると、ラストのもたらしたものは、両の手に余りあるものだろう。



「こんな辺鄙な場所、本当にいるのかしら」
「ペネロピ、足元に気をつけてください」
「もう、この霧、嫌になっちゃう!」

 躓いてしまいそうになるのを、マギに支えられる。いくら憤慨したところで、この霧は晴れてくれない。それが、霧の街と称される所以なのだろう。視界は霞み、周囲でさえ、よくよく目を凝らさなければならない。街の目抜き通りを歩いているというのに、話し声ひとつ聞こえず、気が滅入ってしまいそうになる。

「この街は、随分閉鎖的だと聞きます。恐らく、遠くから私達を、訝しげに眺めているのでしょう」
「だからわたし、花の都が好きなのよ。彼処は外から来た者にも寛容だし、じめじめしてないし」

 わたしは口を尖らせる。この街は、どこか鬱々とした空気を孕む。そしてそれは、恐らくは霧のせいではない。人や、土地や、空気。あらゆるものに、瘴気が蔓延っている。
 そこまで考えたところで、ぴたりとマギの動きが止まった。

「どうしたの、マギ」
「恐らく、この屋敷でしょう」

 彼が視線を向ける方、霧に紛れてはいるが、黒々とした煉瓦造りの屋敷があった。ラストから、聞いた通りの外観をしている。この屋敷を訪えば、きっと望むものを手にするだろうと。そう、古き善き魔女は教えてくれた。
 わたしがマギに目配せを送ると、彼は黙したまま頷いてみせた。そうして、わたしたちはアーチ状の門を潜り抜け、屋敷の玄関に設えられた、ドアベルを鳴らす。ややあって、扉が開かれた。紳士然とした壮年の男性が、僅かに困惑めいた顔で、わたしたちを迎える。ダークブラウンの髪は、この地方ではよく見かけるものだ。しかし、彼の、ゆらめく水底を連想させるまなこは、どこかそぐわないように思えた。

「……どなたでしょう」
「突然の来訪、どうかお許しください。私、学識者のアルケリアと申します。こちらは、弟子のペネロピ」

 マギがわたしの前に出て、すらすらと言の葉を紡ぎ始める。彼の胸元には、王族公認の学識者である旨を謳う、記章が輝いてるはずだ。ヘクセに頼み込み手に入れた、よくできた複製品である。

「主に、水棲生物の研究をしています。それで、こちらに伺ったのです。何しろ、古い文献を所蔵していると聞き及んだもので」

 マギはきわめて、感じの良い好青年を取り繕う。男性の警戒心が、うすらと和らぐのを感じた。

「そうですか、それはわざわざ。僕は、ジェンデンと言います。ああ、上がってください。詳しい話は、中で致しましょう」
「それでは、お言葉に甘えて」
 
 そうして、わたしたちは客間に通された。淡い影を落としてはいるが、よく手入れされ、清潔な印象が窺える。革張りの椅子に腰掛けると、ジェイデンが先に切り出した。

「アルケリア殿は、どこから来たんですか?」
「獅子王の国、花の都からですよ。馬車の旅は、どうにも肩が凝りますね」
「それは遠路遥々。この家の文献で、お力添えできることがあれば良いのですが」

 和やかな会話ではあるが、かすかに探られているような気がして、思わず身体が強張る。かといって、わたしにできることは何もない。ただ、二人の話に耳を傾けるだけである。こうした交渉ごとにおいては、マギの方が信頼される。わたしでは、見目が幼すぎるのだ。

「ペネロピ殿は、弟子にしては随分とお若いようですね」

 ふと、ジェイデンは私を見据えた。優男のような風貌をしているが、眸は蛇の鋭さを併せ持つ。

「ああ、そうでしょう。古くからの知人の娘でしてね。面倒を頼まれたんですよ。けれども、彼女はしっかりしていますから。助かることも多いんですよ」
「なるほど、アルケリア殿は運に恵まれているようだ」

 ジェイデンの唇が弧を描く。そうして、顎を指で撫でた。

「けれども実際は、ペネロピ殿。貴女が、師の立場では?」

 体に通う血が、急速に冷えていくのを感じた。どうして。見透かされぬようにと、素ぶりには気をつけていたはずだ。
 傍に座るマギが、朗らかな笑い声をあげる。

「まさか、そんな冗談はよしてください」
「先程から、嘘をついているでしょう。わかるのですよ、僕には」
「……何故なの」

 もう、誤魔化しは無用だろう。ここにきて、わたしははじめて口を開いた気がした。

「人と、そうでないものを見分けるのは、得意ですから」

 ジェイデンはいたく落ち着いた様子で、そう述べた。

「アルケリア殿は、大方ホムンクルスでしょう。となれば、ペネロピ殿は錬金術師と相場は決まっていますね」
「そうね、ジェンデン。怖いくらいに、ご名答よ」
「それで、本当の目的は?」

 そう促され、わたしは嘆息する。隠し立てしても、無駄だろう。ならば、いっそのこと。逡巡の果て、彼の問いかけに応じることに決めた。

「……霧の街に嫁いだという、人魚、シレーネに会わせてほしいの。ここに、いるのでしょう」
「それはできません」
「どうしてなの」

 ジェイデンが肩を竦める。

「彼女は、僕のお祖母様はとうに、亡くなっていますから」

 それは、わたしの心の、蟠りとなっていたものだった。ラストの話を聞いた時から、ずっと。人魚の姫君が、人の元へと嫁いだのは、昔のこと。人の理に踏み入れば、悠久の寿命も失われてしまう。
 無意識に、わたしは唇を噛み締めていた。

「けれども。話をすることは、できますよ」

 明らかに落胆したわたしをよそに、ジェイデンは軽やかな口ぶりでそう告げた。そうして立ち上がると、少々待っていてほしいと言葉を残し、部屋を去る。

「……どういうこと?  シレーネは亡くなったのではないのかしら」
「彼の真意は掴みかねます。彼は人魚の血をひくゆえに、少々厄介です」

 ジェイデンは、シレーネのことをお祖母様と呼んだ。ジェイデンもまた、人魚の血を継いでいるのだろう。人ならざるものには、マギの魔性は通用しない。しかし、シレーネは人になったのではないのか。うまく思考がまとまらない。
 そうしてふたたび、ジェイデンが戻ってきた。手には、小さな箱を携えて。複雑な紋様が彫られた銀の箱を、まじまじと見た。蓋の部分には、紺碧を煮詰めた色合いの、輝かしいサファイアがあしらわれている。愛おしむよう丁寧に、ジェイデンは箱をテーブルに置いた。

「待たせて申し訳ありません。こちらを、どうぞ」
「……何かしら、オルゴール?」
「さあ、どうでしょうね」

 恭しい所作で、ジェイデンは箱を開けた。そこにあったのは、人だ。いや、人を模したもの。なだらかな榛色の髪の毛、象牙色の肌、かたく閉ざされた瞼。纏うドレスは、フリルやレースをふんだんに含んだもの。彼女はまさしく、幼子が寝しなに聞かせられる、おとぎ話のお姫様だった。小さなお姫様が収められた、銀製の箱は、いわば棺のようにも思えた。

「これは、お祖母様の嫁入り道具の一つです。この街は、余所者を嫌いますからね。彼女はよく、この人形に向けて語りかけたそうですよ」
 
 ジェイデンは人形姫を手に取り、背中にあてがわれた、錆色の螺子を巻いた。

「おはよう、リトル・シレーネ」

 彼の言葉を合図にして、人形の瞼がゆっくりと開いた。黄昏にまどろむ虹彩を、数度瞬かせ、そうしてリトル・シレーネは立ち上がる。

「おはよう、ジェイデン。そして、懐かしのお客様。はじめまして」

 リトル・シレーネはドレスの端を摘んで、しとやかにこうべを垂れた。彼女の体躯は、私の掌に収まるものだ。けれども、そこには確かに、堂々とした振る舞いの姫君の姿があった。リトル・シレーネは、淡くまろやかに笑む。

「待って、どういうこと?  この子は、人形でしょう。それなのに、まるで……」

 心を、持っているかのような。マギと共にあるからこそ、わたしには確信めいたものがあった。リトル・シレーネには、意志がある。

「ひとりぼっちのシレーネは、いつだってわたくしに、話しかけてくれた。彼女の見たもの、聞いたこと。全てが、わたくしに詰められてる。だから、わたくしはシレーネ。シレーネはわたくし。でも……」

 そこで、リトル・シレーネはぴたりと言葉を止めた。そうして、マギに一瞥をやる。

「わたくしは、わたくし」
「だそうですよ。僕の推測ですが、貴方達は、理を踏み越える方法を探しているのでしょう?   そうしたら、リトル・シレーネは、御誂え向きです」
「ジェイデン、お客様に茶菓子の用意をしてないよ。お馬鹿な末裔!」
「……わかりましたよ。僕は少し席を外しますので。リトル・シレーネ、くれぐれも失礼のないように」

 くつくつと、愉悦そうに喉を鳴らしながら、ジェイデンは部屋を出て行った。それを見届けた後、リトル・シレーネはわたしを指差す。

「そこのおまえは、ディーウァの呪いにかけられているね」
「……妖精王を、彼女を知っているの?」
「だって、シレーネの親友だったから。ふたりは仲睦まじく、互いの恋の成り行きを、熱心に語り合ってみせた。そうして、そこのホムンクルスのお前は……」

 つうと、彼女の人差し指は、マギに向けられた。

「あの人に似ているね。ああ、なつかしい」
「……ねえ、リトル・シレーネ。教えて欲しいことが、二つあるの。人魚姫は、どうして人になることができたの?  そして、どうして貴女は心を」

 声に熱量がこもり、わけもわからぬままに、急いてしまう。にもかかわらず、眼前の小さき乙女は、ゆったりとした構えを崩さずにいた。

「まずは、ひとつめ。正しく言えば、理を踏み越えてはいやしない。そんなこと、不可能だからね。ただ、そう見せかけるように、人の真似事をしたに過ぎない。ディーウァの力を借りてね」
「……真似事?」
「そう。だからシレーネは、時折人魚の姿に戻らねばならなかったし、それで一層、街の住民に怯えられた。水にいない人魚ほど、脆いものはないよ」

 閉鎖的な霧の街で、人魚の姫君が馴染むことなど、できるわけないのだ。可哀想なシレーネは、涙を目の縁にとどめては、人形に囁き続けたのだろう。不運だが、珍しいことではない。自らの理から外れるものを、遠ざけようとするのは普通のことだ。特に、この街の排他的な気質が、それを後押ししたに過ぎない。そうして、彼女は人魚のままとこしえに沈んだし、ジェイデンに水魔の血が継がれた。
 リトル・シレーネは指を二つ立てて、マギの元へと歩み寄った。

「それで、二つめの質問だけれど。それには、ホムンクルスのおまえに、語らねばならないね」

 人の子のように振る舞う彼女に、マギはなにを思うのだろう。

「おまえは、心が欲しい?」
「……私、は」

 ぎこちない声色だった。ひそかに、マギの顔を見やる。いつかにも見た、憂いを帯びた表情。やがて、彼は何かを振り払うよう、かぶりを振った。

「ペネロピが、望むがままに」
「なんてつまらない答えだろう!」

 リトル・シレーネはいたましげに嘆いた。彼女のまなこは、燦となまめかしく光を帯びる。口元はかすかに歪められ、苛立ちを隠しもせずに。彼女の纏うものは、可愛らしくもあり、苛烈でもあった。

「いいかい、おまえに問うているんだ。なにかを、だれかを、渇望したことは?  知らずのうちに、言の葉を紡いだことは?  朝へうつろう夜の藍に、手を伸ばしたことは?」

 緩むことのない追求は、マギを、わたしをも貫いてゆく。マギの双眸が惑いでけぶるのを垣間見て、わたしははっとする。空ろなどではない。そこには、感情の揺らめきを湛えていた気がした。
 そうして、静けさの帳が降りた頃、扉がぎいと鳴り、ジェイデンが帰ってきた。今度は、菓子と紅茶を手にして。

「アップルティーに、ラム酒入りのチョコレート。口に合うといいのですが」
「なんと間の悪い末裔だこと!」

 そう、リトル・シレーネは罵る。けれども、奇妙な安堵に包まれたことは事実だった。わたしは、傍のマギの顔を覗き込む。常と変わらぬ、うつくしのかんばせがあった。

「……大丈夫?」
「心配いりません。私は、ホムンクルスですから」

 そうだ、マギはホムンクルスだ。だから、こうして声をかける必要もない。だけれども、そうせずにはいられなかったのだ。

「……眠りにつく時が来たみたい。それでは、さようならお客様」  

 彼女はまなこを擦り、銀の寝台に戻ってしまう。そうして、ちいさない体をおさめて、瞼を閉じた。呼吸の音さえしない、ただの精巧な人形へ転じる。
 ジェイデンはいたわるように、そうっと蓋を閉じた。
 
「随分と、気まぐれな人だったでしょう。お祖母様は、もっとおとなしやかな方だったのに」

 そうは言いながらも、彼の眼差しはどこか優しさを孕む。きっと、彼にとって、リトル・シレーネは家族と呼べるものなのだろう。では、マギはどうだと言うのだ。わたしの、ホムンクルス。妖精王の呪いを解くために作られたのだから、マギは一等大切な存在だ。しかし、それだけか。

「……心とは、どういうものなのですか」

 揺らぐ思考に、はっと我に帰ったのは、マギが声を発したからだった。

「僕が思うにね。きっと、いつのまにか、気付いた時に、在るものだと思うんですよ。まあ、真実は神のみぞ知るってところでしょうが」

 おまえは、心が欲しい?

 リトル・シレーネの言葉がよみがえる。フォークを手に取り、チョコレートブラウニーを切り崩した。もし、答えを聞けたならば。マギは、なんと言うのだろう。