可哀想な

 ニコラスが私の家に訪れたのは、それから一週間が経ってのことでした。ちょうど仕立屋に向かう途中に立ち寄った、などと尤もらしいことを言い、彼は家に上がりました。両親の歓待ぶりは凄まじく、彼の容姿や礼儀を余すところなくほめそやします。ニコラスはそのような賛辞に慣れているからでしょうか、嫌味のない笑顔で聞いていました。そうしてしばらくすると、彼は腕時計を睨みながら立ち上がり、暇乞いを始めました。

「それではそろそろ失礼します」
「何、もう行ってしまうのか」
「ええ、メイブリック先生。しかし、参ったな。久しぶりにロイストンに帰ってきたから、仕立屋の場所を失念してしまった。先生、よければ道順を教えて頂けませんか?」

 ニコラスは私の方を一瞥すると、すぐに父の方へと向き直りました。側に腰掛けていた母は、その言葉を聞きつけて、両手を叩きます。

「それならばイヴが案内しなさいな!」

 名案だとばかりに、母は声を高くしました。私は密かに母を怨みました。私が両親のように何も知らなければ、私は疑いを持たず、喜んで承諾したでしょう。しかし、私の胸にあるのは恐怖でした。2人きりになったら、責め立てられるのではないか、という疑念がありました。この青年は、紳士の皮を被った異形のものなのです。あの、舞踏会の夜、確かに彼はそう告白したではありませんか。私の知っているニコラスは、亡くなったのだと。

「イヴ」

 愛称を呼ばれ、私ははっと顔を上げました。

「わかったわ、行きましょうか」

 僅かばかりの勇気を奮い立たせ、私はそう言いました。両親はすっかり、彼を立派な青年だと心酔しています。彼は人を惹きつける、魔力がありました。ここで私が首を横に振ったならば、両親は私を詰り、立場が悪くなるでしょう。それに、まだ太陽が真中に出ている時分です。何を恐れる必要がありましょう。仕立屋までの道のりは、人通りもあります。私はそれらのことを、じっくりと丁寧に、自らに言い聞かせました。
 ロイストンの通りを2人で並んで歩くのは、初めてのことでした。道中、ニコラスは寄宿学校の話を私に聞かせました。上手く相槌を打てたかは、自信がありません。しかし取り立てて不穏な雰囲気にならなかったことに、私は安堵しました。

「イヴの方は、何か変わったことはあった?」

 急な質問向けられて、私はすぐに言葉を発することができませんでした。頬に手を置き、私は思考を巡らせました。不用意な事を口走ってはいけませんから。

「相変わらずだわ。最近の大きな関心ごとは、パン屋の娘のリジーが行方不明になったことくらい。噂では、駆け落ちって言われてるけれど」
「へえ、彼女はいくつだったんだ?」
「16歳だったかしら」

 私は可愛いリジーのことを思い浮かべました。素直で朗らかな娘でしたが、彼女は愚かな事をしました。かつては少女趣味の夢物語を読んでは、駆け落ちに胸を膨らませました。けれども、本当に友人や両親、地位、故郷を捨てて幸せになどなれないのではないでしょうか。

「それって、本当に駆け落ちだろうか」 
「どういうこと」
「だって、ここはロイストンだ」

 出来の悪い教え子を諭すが如く、優しい声色でした。

「彼女は、妖精にかどわかされてしまったんじゃないかな」

 一瞬、世界から音が去ってしまったような気がしました。私は顔を引きつらせ、けれども負けてはならないと、自身を鼓舞しました。

「そう、そうね。妖精の仕業かもしれないわ」

 私はこの挑戦に乗ろうと決めました。それは大胆な賭けだったように思います。この時の私には、悪魔めいた閃きが浮かんだのです。確かに私達の戯れ言によって、ニコラスは亡くなりました。けれど、そんなに罪が重いことなのでしょうか。銀の小枝を探しに、外に出たのは、紛れもなくニコラス当人の意思なのです。雲行きが怪しくなれば、お屋敷に戻ることだってできたでしょう。あれくらいの年頃なら、弟や妹に少々冷たく当たっても仕方のないことです。

「昔はよく妖精などと口走って、父様を怒らせたよ」
「その言い方だと、今は信じていないみたいね」
「そんなことないよ、彼らは僕の良き友人だ」

 冗談のように、彼は肩を竦めて苦笑しました。彼の身のこなしは都会的で、ある種の余裕を感じさせます。

「ああ、友人といえば、僕は姉様が羨ましかったんだな」

 不意に移り変わった話題に、私は小首を傾げました。

「姉様は僕に足りないものを全て持っていた。父様の信頼や知性、そしてイヴも」

 彼は、遥か昔を愛おしむふうにして、目を細めました。その間も、けして歩調は緩むことがありません。彼の横顔を盗み見ながら、私は彼の気持ちを測りかねていました。

「姉様には親友と呼べる人がいたこと、僕にはそれが喉から手が出るくらい欲しかった。だから、とっても嬉しかったんだ」
「貴方だって、寄宿学校で見つけたのでしょう?」
「イヴ、話を逸らさないで」

 彼は大きくかぶりを振りました。そうしてわざとらしい咳払いをするのです。

「つまり、君が最初に会った時、理解者だと言ってくれたことが、僕の支えだった。妖精を信じてる、と言ってくれたこともね」
「確かに、覚えているわ」

 けして忘れもしません。初めてキングストンの姉弟に会った時のことを、そしてニコラスに手を差し伸べたことも。
 この時、喉元に自責の念が突きつけられた気分でした。同時に、少量の苛立ちも感じました。彼の言わんとしていることが、全く見当がつきませんでしたから。

「僕にとっては、君は特別な存在だったんだ。だから、どうか」

 彼は立ち止まり、そして私の手を取って、手のひらに口づけをしようとしました。私は心臓が波打ち、そして気味の悪い何かが背を這う感覚に囚われました。気がつけば、私は彼の手を払い、駆け出していたのです。ああ、あの時と逆だ、と思いました。私から、レイチェルが去っていった日。レイチェルも、同じ気持ちだったのでしょうか。

「待って、イヴ!」

 後ろから、彼が追いかけてきました。女性の足、ましてやヒールに丈の長いワンピースを着ているのです。彼にとって、追いつくことなど、造作のないものでした。すぐに肩を掴まれ、私は思わず転倒しそうになりました。彼の長い腕が伸び、抱き竦める形で、背後から私の不安定な体躯を支えます。

 私は、錯乱していました。

「ごめんなさい、ニコラス、本当にごめんなさい!」
「君や、姉様だってそうだ。あの嵐の夜以来、僕を避ける!」

 彼の表情はわかりませんでした。私は自由の身になろうと、無我夢中でもがきました。その度に、彼の腕の力が強くなるのです。

「あの嵐の夜、僕は可哀想なニコラスを、殺した。レイチェルのような、皆から愛される存在になろうとした、それだけなのに。何故、君は今の僕を否定するんだ」
「やめて、私に、ニコラスを返して!」

 私はなりふり構わず、叫び続けました。嗚咽混じりの悲鳴が、ロイストンの通りに響き渡ります。街行く人々は、私を奇異の目で見ていたのでしょう。兎にも角にも、あの可愛らしいニコラスが亡くなった。このことが、証明されてしまったのです。私は、気が遠くなるのを、彼の腕の中で感じました。