朝倉さんはきつく律さんを睨みつけていた。その三白眼はいつも以上に鋭く、そして光が感じられない。
「律、裏切ったな」
「先に裏切ったのはそっちじゃん」
律さんが顎で朝倉さんを指す。
「だってあたしを廃棄しようとしてたでしょ」
「……仕方がないだろ」
「ふうん。じゃああたしだって仕方がないよ」
「だからって、陸を脱走させて何考えてんだ!」
やはり、私をだしてくれたのは律さんの独断だったんだ。朝倉さんは今にも律さんに掴みかかりそうな勢いだった。私はそれを止める術をしらない。
「わかってんだよ、お前が№5348白樺純子を手助けしてたんだ」
「ばれちゃった?」
律さんが舌を小さく出す。
「陸と観月をどうするつもりだ」
朝倉さんが言った。朝倉さんだって、私達をどうするつもりなの。なんて言えるわけがなかった。律さんは扉に視線を移す。真っ白な、扉。ドアノブはなく、横開きの扉なのだろう。律さんは視線を固定したまま、喋り始めた。
「選ばせるつもりだよ」
「……選ぶ?」
「そう。陸ちゃんはいつだって巻き込まれてきたんだよ、だから最後くらい自分で選択してあげさせようかなあ、って」
名前を呼ばれてどきりとした。最初から、こうなる予定だったのかな。獣化症候群とか、特別個体とか、わからないことだらけだ。
「あたしと観月の力は制御されているけど、あたしはそれを解除するコードを知ってる。あたしたちがいれば、街の元凶である智一や研究者を皆殺しにできるよ。つまり、復讐ってこと」
「復讐、って」
「もちろん陸ちゃんには選ぶ権利がある。復讐するか、しないか。ああ、今更軍に利用されるって選択もありだよ。そっちの方がいろんな意味で安全は保障されるかもね」
思わず彼をみた。彼は黙したまま、私をじっと見つめていた。待っているんだ。そう感じた。私がどんな選択をしたって、彼は従うだろう。
「私は……」
そうだ、私は。こんなことになって、すごくつらいし苦しいし悲しい。海は研究のせいであんなことになったんだし、白樺さんは軍に殺されてしまった。たった、一言。それだけ言えば、二人は望み通りに動いてくれる。
「陸」
朝倉さんが声をかけてくれた。諦めにも悟りにも似た表情だ。私は頷く。雑多な感情が消えていくのを感じた。
私は、選択する。
「私は、誰も殺さない」
朝倉さんの表情が変わる。今顔に浮かんでいるのは純粋な驚愕だった。彼はただ私の選択を受け入れ、律さんは笑顔で頷いただけだった。私は、誰も殺したくない。ましてや、海の世界で一番好きな人を殺したくなかった。
「それで、いいのか……?」
朝倉さんが聞いてきた。どこまでも優しい。だって、私の選択を気遣ってくれているんだから。
「はい」
「そ、うか」
たったそれだけの会話だった。それだけで、朝倉さんは何もかもを察してくれた。律さんが扉の前に手をかざす。すると、小さいモニターが現れた。滑るように何かを入力していくと、扉が開いた。
「ここを通れば君達は外に出られるよ」
「律さんは、どうするんですか」
「どうしよっかなあ。ま、智一と一緒に居るよ」
律さんはのんびりとした調子だった。最後に、一つだけ聞きたいことがある。
「一つだけ、質問があります」
「なになに?」
「特別個体、ってどういうことなんですか」
律さんは「へえ」と意外そうな声を出した。
「狼の群れのリーダーみたいなもんだよ」
「リーダー……?」
「理性を失って、獣化した個体は限りなく野性的で本能に近い行動をとる。実験結果でね、獣化した個体は皆ある個体を中心として動くことがわかった。その個体が、特別個体」
それが、私。実感がわかなかった。でも、そういうものなのだという気もしてくる。
「……陸」
朝倉さんに呼び止められて、私は振り返った。
「俺はお前たちを止めに来た」
「……はい」
そうだ。朝倉さんは研究者で、それで。
「お前の両親に頼まれてたんだ。海と陸をよろしく頼むって」
朝倉さんは、銃を持っていた。息がとまる。
「どうすりゃ、いいんだろうな。海と陸に幸せになってほしかったよ。でも、俺は研究者として役目を果たさなきゃならない」
銃を私に向かって構える。彼が、とっさに私の前へ出た。しばらく、無音の状態が続いた。死にたくなんてないし、誰かが殺される所なんてみたくない。彼の背に遮られて、何も見えない。発砲音が響いた。少なくとも、私は無事だ。
「智一、智一!」
律さんが初めて動転している。涙はでなかった。ただ、悲しかった。
彼は私の前からどこうとはけしてしなかった。彼なりに、私を守ろうとしてくれているんだ。
「……二人はいきなよ」
律さんが言った。どこかその声は不安定で、影をおとしていた。彼が、私の手首を掴んだ。けれど、私は動けなかった。朝倉さんは。
「行きなよ!!」
律さんが叫ぶ。私ははっとした。彼に引っ張られて、私達は扉の向こう側へ飛び込んだ。最後、振り返ろうとしたが、朝倉さんの姿を見ることは叶わなかった。無情にも扉がしまっていく。
「ねえ、観月さん。あさ、朝倉さんは」
「大丈夫、小山内律がいる」
何が大丈夫かなんてわからなかった。一気にいままで我慢していた感情が溢れだして、止まらない。
「あと少しで、終わりだ」
「……うん」
泣かない。まだ、泣かない。彼の後ろについて、私は歩きだした。疲れなんて、吹き飛んでいた。ただ、前に進む。
人工的じゃない、柔らかな光がさしていた。
「外だ」
彼は言った。この階段を昇れば、外に出れる。ふらふらに足がもつれながらも、私は駆けあがった。眩いほどの光が、私の視界を支配する。月がうっすらと最後の輝きを放っていた。薄紫色の空に、雲がたなびいている。一面、草原だった。地平線の向こうまでそれは続いていて、鳥が二羽向こうから飛んでくる。夜明けだった。まぎれもなく、朝が間近に迫っている。
「終わったんだ」
溜息と共に、呟いていた。疲れが押し寄せる。もう立っていられそうになかった。後ろに倒れこんでしまおう、そうしよう。風がふきぬける。僅かな浮遊感の後、眼前に空が見えた。土の匂いを全身で感じた。生きている。多くを失って、私は生きた。
「陸さん……?」
不安げな彼の声がふってきた。まるで壊れ物でも扱うように、私を抱き起こす。彼の腕の中で、私はようやく息をつくことができた。瞼が重くなってきた。今は、深く眠ってしまえ。考えるのは、後にまわそう。霞む世界の中で、彼の瞳だけがクリアに見えた。瑠璃色よりも濃い、真夜中の瞳。悲しいくらいに、綺麗だった。