天蓋を望む

 きらびやかな金管楽器の音が天へと届けば、豊穣の餐がはじまる合図となった。この日ばかりは、塔に活気がみちる。子どもたちは思い思いの衣装を纏い、あちこちを駆けてゆく。宗教歌は始終鳴り止まず、熱狂が静まることはない。
 談話室は、子どもたちで溢れていた。中でも年長の子らは、こぞって弦楽器を披露する。彼らの周囲には、小さな輪が出来上がっていた。その中に見知った顔をみつけ、エトは肩を叩く。

「御機嫌よう、お嬢さん」
「びっくりした!」

 気取って恭しくこうべを垂れて見せれば、ネリーが鈴を転がすように笑う。彼女の顔は薄く化粧が施され、どこか大人びて見えた。

「やっぱり、真珠色のにしたんだね」
「似合うかしら」
「もちろん」

 慎ましい真珠色のワンピースは、ネリーによく似合っていた。エトは談話室の周りを一望する。質素な制服を脱ぎ捨てて、さまざな色彩に身を包む。宝石箱が散らされたような光景に、エトは目を細めた。

「みんな、よそ行きの服を着ていて、違うところみたいだ」
「それなら、あの服を貸すのに。いつも通りの制服だなんて、つまらないわ」
「女の子らしい服装を着たら、ユーゴあたりは泡を吹いて驚いてしまうね」

 エトとネリーは互いに顔を見合わせて、口角を緩めた。そうしてネリーは、じっとエトの顔に視線を注ぐ。

「でも、すこうしだけ、見てみたい気がするの。ね、いたずらを仕掛けましょうよ」
「みんなを驚かすってこと?」
「楽しそうでしょう」

 なんと返事をしたら良いか、考えあぐねてしまう。エトは曖昧な表情を浮かべた。

「まあ、ねえ」
「ね、きまり!」

 ネリーが軽快に両手を合わせた。せっかくの祭事なのだから、少しばかり羽目を外しても良いのかもしれないな。そう、エトは自身に言い聞かせてみせると、背の高い影が近づいてくるのを捉えた。子どもたちと同じように、この塔に住む神学者だ。僅かに年輪が刻まれた面差しは、祭事だからだろう、いくらかやわらいでいた。

「ああ、エト。こちらへ来なさい」
「何か用ですか、先生」

 老人は、右手にはしばみ色の封筒を持っていた。

「ご家族から、手紙が届いていたよ」
「ありがとうございます」

 両手で封筒を受け取る。宛名の部分には、よく馴染んだ名前が刻まれていた。母から手紙が来るなど、はじめてのことだ。エトは大切に、衣嚢にしまい込む。

「楽しんでいるかな」
「ええ、とても」
「君は塔に来て半年だけれど、何か困ったことは?」

 エトはためらった。左腕の痣が、日に日に濃くなっていること。このことを、相談するべきか、迷っていたのだ。エトは恐る恐る、袖を捲る。老人は象牙色に濁ったまなこを見開いた。

「おお、これは……」
「半年前より、痣が広がっているんです。先生、これは何かの前触れでしょうか」

 老人が首を横にふった。彼はエトの腕を掴み、よくよく目を凝らそうと顔を近づける。そうして、数秒が過ぎたことだろう。ふと、老人は顔を上げ、恍惚とした表情を浮かべた。

「おめでとう、エト。君は、選ばれたんだ」

***

 眼前の娘は誰だ。

 エトは問う。白藍のワンピースを着た娘は、甘く微笑んだ。透いた蜂蜜色の髪はなだらかにうねり、背中をつたう。しなやか緩急をつけた肢体が、うすらと青く輝いた。

「誰だ、お前は」
「エト、かわいそうなエト」

 ほっそりとした声色で、娘は嘆く。娘の唇は薔薇色に灯り、眸は煌めきを宿した。

「お前が縋った母さまは、違う依り代を見つけてしまったよ」
「ちがう、うるさい!」
「お前は、エメのようはなれなかった。けれど今更、少女として振舞うこともできない」

 娘の青白い手が、エトの頬をなでた。あまりの冷たさに、エトの身が竦む。されど、逃げてはならない。嗚咽が込み上げた。だめだ、いけない、このままだと感情に奔流されてしまう。

「……エト、開けて大丈夫?」

 隔てられた扉の向こう、ネリーの青ざめた声が聞こえる。そうやって、エトにかけられたまじないは、弾けて消えた。あるべきものは、あるべきところへ還る。エトの目の前にあるのは、ただの姿見だ。白藍のワンピースは、不健康なエトの体躯には、不釣り合いのように思えた。
 返事がないのを心配したのだろう、ネリーが遠慮がちに扉を開ける。蒼白な顔をした友人に、ネリーは驚いた。

「顔色が悪いわ」
「……少し、一人になっていいかな」
「ええ、もちろんよ」

 エトはうつむいたまま、その場を駆け出した。封が切られた母からの便りも、そのままにして。


 そうして辿り着いた先は、あいもかわらない音楽室だった。錆びたドアノブを回す。誰もいませんように。そう祈りながら、エトは扉を開けた。
 けれども、彼女の望みは儚くもついえる。シエルが、宵の眸を持つ少年の姿があったからだ。

「……誰かと思った」

 シエルが、乾いた声でつぶやく。彼は硝子戸に寄りかかり、たゆたう埃を眺めていた

「皆と階下で祝わないのかい」
「あんな祭り事、意味なんてないだろ」
「シエル、泣いてるのか」

 夜空色の双眸が、星を産み落とす。彼がまたたくと、両のまなこから透き通った雫が、つうと零れだした。嗚咽一つあげず、指で露を拭うこともせず、ただただ静寂に浸りながら、彼は泣いていた。
 エトがシエルのかたわらへ寄る。

「……お前、その痣」

 袖から露わになった、エニシダの花。シエルはそれを見つめると、暫くしてから、かすれた声で笑い出した。

「ははは、はは。そうか、やはり、お前が選ばれたんだ。二ネットやロランの代わりに、お前が」

 エトは眉間にしわを寄せた。まるで、その言い方では、ロランがとおつ国に抱かれたようではないか。

「ロランは、どうしたんだい」
「あいつは、今、首都にいるよ。だが、戻ってこない。今晩が峠だろうと、今朝連絡が来た。亡骸さえ、向こうで弔う」
「……どうして、首都に」
「何度も、聞かされただろ。俺たちの本分は、何だ」

 話が見えない。シエルはとつとつと、語りかける。絡まった糸をほどくよう、ひとつひとつ丁寧に答え合せをしてゆく気分だ。かつて、シエルは言った。物事には、全て理由があるのだと。

「物事を学び、教養を身につけ、健やかな魂を育み、そして」

 人々に慰めを施すこと。その先を、エトが紡げなかったのは、シエルが薄い唇に人差し指をあてがったからだ。

「あいつは、信仰のままに、喜んで人々に慰めを与えに行ったんだ。自分の命も顧みず」

 一瞬の、静寂。

「置いてゆかれるのは、もう嫌だ」

 エトの頭の中で、いくつものどうして、が駆け巡る。どうして、花の病は閉じ込められるのか。どうして、ロランは死にゆくのだろう。どうして、母は亡き兄の面影を辿ることを、強いたのだ。少年の装いしか許されず、花冠を編むことを厭うて、少女らしい振る舞いを禁じた。さりとて、母が末に手に取ったのは、少年のまがいものではない。久方ぶりの母からの便りは、エトに弟が出来たのだと、そう淡白に綴られていた。
 混乱のままに、胸が打ち震える。堰を切ったように、涙が溢れた。後に残ったのは、泣き虫が、2人。

「何故、泣くんだ」

 ぎょっとして、シエルは眉根を寄せた。けれどもそう言う彼の頬にも、つうと流れた涙の跡が一筋、きらめいていた。

「わからない。けれど、ひたすら悲しいんだ。友に置き去りにされることや、母に捨て置かれることは、どんなにさみしいことだろう」

 不意に檸檬にも似た、清かな匂いがあたりに広がる。エニシダの、匂いだ。

「ねえ、シエル。教えてくれないか、花の病は、ロランは、どうして」

 口が縺れ、言いたいことが纏まらない。思考が氾濫する。胸のあたりに、鈍い痛みが広がった。
 シエルが苦々しげに言葉を手繰る。

「この、忌々しい花の匂いのせいだ。強い花の香は、不治の病をもやわらげる。けれど、俺たちはどうなる? 激しい感情に身悶えながら、死ぬんだ。神さまなんて耳障りのいい言葉を使って、塔に閉じ込めて、大人になるか死ぬまで飼い慣らされる」

 かつて顔を歪めた、薔薇の匂いを思い出す。二ネットは別離の苦しみを、その身に嘆きながら朽ちていった。ならば、ロランはどうだと言うのだろう。
 シエルはエトを真っ直ぐに見据える。その面差しには、僅かばかりの疲れがにじみ出ていた。

「それでもお前は、花の病を神のみわざだと、そう言うのか」
「……当たり前だろう、そう習ってきたんだ。母だって、信心深い私を望んでいる」

 そうだ、いつだってエトは己を欺いた。神を信じたのは、母がそのようにあるべきだと言ったからだ。では、エトの本心はどこにあるのか。

「俺は明日の早朝、塔を出る」

 はっきりとした物言いだった。エトは翡翠の双眸を数度またたかせる。シエルがゆっくりと、手を差し出した。

「エトは、どうする」

 シエルは今、エトに問いかけていた。彼は、星の天蓋を欲していたのだ。