妖精王の呪い

 わたしの、たったひとつのさいわいは、彼と共に在る。
 忘れ得ぬ、今際の言葉よ。わたしは師匠が亡くなった夜、もうひとつの呪いにかけられた。



 妖精の国の門は、ありとあらゆるところに開かれている。紫陽花につたう朝露に、暗闇に佇む路地裏に、あるいは古く秘せられた姿見に。そうして門をくぐり抜けると、硝子細工の城にたどり着く。全てが白亜に染められた、神秘の城。その最上階の広間は、ささやかな熱が込められていた。
 あちらの毛皮のショールのご婦人は、偉大なる冬の魔女。そのお隣、髭を蓄えた老紳士は、悪魔と杯を交わした獅子王だ。すれ違う人々、誰もが仮面を付けて微笑み合う。何故なら、妖精の国の慣わしだからだ。彼女らは、愛する者にしか素顔を見せてはならないのだ。

「わたしの仮面、おかしくない?」
「大丈夫です、よくお似合いですよ」
「それはそれで、複雑な気分……」

 しきたりに沿うのは、わたしたちも同じことだ。わたしは黒い仮面、マギはフードで顔を覆い隠している。彼が今宵纏うのは、上等な絹のローブだ。ゆったりとした琥珀色の生地が、彼の肢体をとっぷりと包んでいる。

「ねえ、マギ。最後の命令、覚えている?」
「……ええ、もちろんです」

 ちらりとマギの横顔を盗み見るが、やはり表情を窺い知ることはできない。

「妖精王に、ディーウァに恋をして。それが、わたしの最後の命令」

 ぼんやりと目の前の光景を眺めていると、夜会の晩を思い出す。人と妖精、考えることなどさして変わらないのかもしれない。

「……それで、本当に良いのですか?」
「貴方にしては反抗的だわ。それとも、少し前から?」
「気に障ったのなら申し訳ありません。ですが、私は」
「マギ、そろそろ主催が現れる頃合いでしょう。挨拶をしに行かなきゃ」

 彼の言葉を遮り、そうっと前へ歩みだす。

「私は、ペネロピと共に在れて良かったと。そう、思うのです」

 ずっと、この時を夢見ていたのだ。わたしのまことの願いは、呪いを解くことではない。妖精王にマギを差し出し、彼女がうたかたの恋に溺れる間。わたしは賢者の石を手にし、愛しいアルケーを取り戻すのだ。だからけして、振り向くことのないように。胸中に、深く刻み込む。
 そう、思い巡らせていた時。華やいだ歓声が、広間中を包み込む。広間の奥に設えられた大階段を見遣れば、その理由がよく飲み込めた。何人もの従者をひきつれて、笑みを綻ばせる女性。夜の闇を切り取ったドレスは、一段ずつ降りるたびに、裾がやわく揺らめいた。なによりも、せなにうすらと輝く二対の透いた翅。彼女こそが、妖精の国の王、ディーウァだ。

「どうか、美しい宵をお過ごしくださいますよう」

 妖精王は、よく澄み渡る声でそう告げた。ドレスと揃いのヴェールにしまいこまれた眸は、鈍く輝きを帯びているのだろうか。

「妖精王さま、お招きいただい光栄ですわ」
「ああ、ディーウァ。100年ぶりだろうか、すっかり王の器になったね」
「ええ、ほんとうに。その翅、先代王によく似ていること」

 彼女が最後の一段を降りると、すぐに挨拶が飛び交う。魔女や魔法使い、獣人、さまざまに妖精王を取り囲んだ。わたしは半ば強引に、その輪をすり抜ける。怪訝そうに口元を歪めるもの、あるいはわたしを認めて興味深そうに道を譲るもの。あまりに重い視線を潜り抜け、やっとのことで妖精王の前へたどり着いた。彼女は驚きもせずに、ただわたしの言葉を待っている。

「変わりないようね、妖精王ディーウァ」
「ご機嫌よう、小さな錬金術師」

 妖精王の振る舞いは悠々としたものだった。思わず、こちらが動揺してしまいそうになるくらいには。

「ねえ、妖精王さま。約束、覚えていらして?」
「この世で一等美しいものを差し出したら、呪いを解く。もちろん、覚えておりますよ」

 わたしは、深く息を吸い込む。

「それならば、妖精王さま。うつし国至上の美を、ご覧入れましょう。さあさ、皆さまも、是非見ていってらして」

 面白そうにやり取りを眺めていた聴衆に、にっこりと微笑んでみせた。ざわめきが、波のようにうねる。

「おいでなさいな、マギ」

 わたしの、うつくしのホムンクルスの名を転がす。そうすれば、いつだって彼は馳せ参じるのだ。自然と、群衆が割ける。その真ん中、マギはこちらへ静かに歩み寄った。

「顔を見せても、よろしくて?」
「……許しましょう」

 ややあって、妖精王が頷いた。ここに集う人の多くは、非日常を味わうためにいるのだ。彼らの好奇を、たやすく断つわけにはいかないだろう。
 ちらりと目配せを遣れば、彼は緩慢な手つきでフードに手をかけた。衣摺れの音がして、彼の端正な顔が晒される。ほうというため息が聞こえた。わたしたちを取り囲む、誰もが夢中になる。雄々しい眸、よくとおった鼻筋、端正な唇。すべてを、虜とする。

「……アルケー?」

 妖精王は僅かに後ずさる。その拍子に濃紺の袖がゆらめいた。彼女は呆けたまま、唇を戦慄かせる。

「この世で最も美しいものを、とのお言葉だったので。妖精王が唯一恋した殿方に似せれば、きっと何よりも綺麗なはずでしょう」

 賢者の石を求めたわたしの師匠は、そこで出会った娘と恋に落ちた。されども、どうして。わたしが欲してやまない彼の寵愛を、妖精王は呪いを持って返したというのだ。
 だからこそ、わたしはマギを亡き師匠に寄せたのだけれども。

「私はマギ。貴女のための、ホムンクルスです」

 いつかに教えた通りの台詞を吐く。蜜のような甘美さを伴う声だった。彼は体を軽く曲げ、恭しい身振りでお辞儀をした。

「それで、呪いを解いてくださらない?  それとも、まだ認めてもらえないかしら」
「作りものに心動かすなど、馬鹿馬鹿しい」
「そうかしら。少なくとも、貴女のお客さまがたは興味津々のようだけれど」

 周囲を見渡せば、みながマギを見つめているのだろう。仮面の奥に隠された表情は、熱に浮かされているに違いない。それだけの、魔性を得たのだ。

「マギ、一曲お相手して差し上げなさい」
「お手をどうぞ」

 マギは妖精王に跪き、たおやかに手を差し出す。彼女は、たしかに当惑していた。しかし、恐る恐る彼女は手を取ったのだ。

「どうせならば、皆さまも踊りましょうよ。きっと楽しい夜になるわ」

 歓声が上がる。妖精王の従者たちは、慌ただしく楽隊の用意に走り出した。当のマギは妖精王に何事かを囁き、笑みを浮かべていた。妖精王の口元はかすかに緩む。
 やがて準備も整い、弦楽器の旋律を皮切りに、男女は踊り出す。マギは完璧に、彼女をエスコートしてみせた。わたしはひっそりと、その場を後にする。彼女はマギに堕ちるだろうし、従者たちは楽師に扮してしまった。わたしがいなくなったとて、咎め立てるものはいないのだ。



 ない。ない。どこにもない。

 必死になって部屋の中を探し回る。けれども、目当てのものは見つかりそうになかった。この世の什宝をひとつところにまとめたという、妖精王の宝物庫。忍び込むには、さして難しいことはなかった。従者たちは階上の宴に気を取られている。姿変じの薬や睡眠薬を使えば、無垢な妖精たちを騙すことは容易いのだ。問題は妖精王にある。いくらマギに心乱されているとはいえ、すぐに気がついてしまうだろう。
 焦りで喉が乾く。林立したいくつもの硝子棚には、いくつもの品々が飾られている。その間を駆け回りながら、わたしは途方に暮れていた。

 賢者の石は、一体どこに?


「小さな錬金術師よ、懲りないのですね」 

 背後から、冷たい声が聞こえる。わたしはゆっくりと振り向いた。やはり、妖精王だ。上手くいくとは、けして思ってはいなかった。けれども、あまりにも早すぎる。

「昔も、こうして宝物庫に忍び込みましたね。再び、呪いをかけられたいのですか?」
「……マギはどうだったかしら」

 どうしたらいい。考え続けなければ。動揺を悟られてはいけない。胸の内がひりつく。わたしは慎重に、彼女から距離をとった。

「確かに、彼は美しいでしょう。けれどもね、小さな錬金術師。貴女の企みなど、こちらの手の内にあります」
「どうでしょうね、マギの手を取った時、少女のように微笑んだのは誰?」
「黙りなさい!」

 頬を撫でる空気が生暖かくなる。彼女が細い腕を天に突き上げ、振り落とした時には、もうすでに遅かった。揺すぶられるような突風が、わたしを目掛けて飛んでくる。鋭い風が、肌を切り裂いていくようだ。

「余は、忌々しいアルケーが憎いのです。そして、それは弟子のお前とて同じこと!」

 どうして。その言葉を吐き出せなかったのは、彼女がわたしに向けて、人差し指を突き出していたからだ。その指の先、淡い閃光が渦巻いている。逃げ場は、どこにもない。わたしは息を呑み、目を瞑る。そうして爆発音が聞こえたのは、ほぼ同時のように思われた。
 けれども。全く、痛くないのだ。こわごわと、瞼を開ける。

「……マギ!」

 目の前には、マギが立っていた。彼は妖精王の魔法を受けても、平然と立っている。そのように作ったのは、わたしなのだけれども。

「大丈夫ですか、ペネロピ」
「命令にないわ、こんなこと!」

 マギはわたしの言葉を無視して、妖精王に向き直る。

「妖精王ディーウァ、どうかお許しください。師の非は弟子の罪。ペネロピの代わりに、私が償いましょう」
「あの男の顔で、名前を呼ばないで!」

 再び室内は強風に包まれる。けれども今回は、明らかに魔力の暴発だった。縦横無尽に旋風があちこちを駆け巡る。マギは私を庇うように覆い被さった。その、またたきほどの間。妖精王のヴェールが揺らめいた、その向こう。わたしは、はっきりと虹色の瞳を垣間見た。

 虹色に、煌めいているのさ。
 駄目だよ、ペネロピ。だって、俺だけの賢者の石なのだから。

 師匠の言葉が、鮮やかに蘇る。つまり、賢者の石とは。

「どうして、貴女は師匠を、アルケーを憎むの!」

 無意識に、わたしはマギの元を飛び出していた。頰を射る風にも構わずに、妖精王に摑みかかる。

「あの男は、余を甘言を持って謀ったのです!」
「違う、師匠は貴女を最後まで愛していた!」
「嘘よ、アルケーは最初から宝物庫が目当てだった!」

 虹色のまなこが大きく見開かれる。わたしは畳み掛けた。

「師匠はずっと、賢者の石を求めていた。虹色に輝く賢者の石。でもそんなの、この部屋のどこにもないの!  何故なら、貴女の瞳をそう喩えていたのだから!」

 わたしはずっと、師匠は妖精王を恨んでいるのだと思っていた。愛する人に呪いをかけられた最期は、どんなに切ないものだろうと。ゆえにわたしは、賢者の石を欲していたのだ。復讐と、僅かばかりの嫉妬のつもりだったというのに。
 目頭がぎゅっと熱くなる。目の縁に涙が溢れ、やがては零れ落ちていった。知らずのうちに、風は止んでいた。

「ずっと師匠は、貴女だけを想っていたの」

 わたしはひとり、呟いた。
 妖精王はその場にへたり込み、呆然としていた。その昔、師匠と妖精王は互いに恋をした。されども少しの掛け違いで、呪い呪われて。絡まった糸は、長い時をかけて、ようやくほどかれたのだ。