幽霊列車

 夜は冷たく、暗い海の底を連想させた。月は冴え、湖は黒々と口を大きく構えている。エトはかすかな蝋燭の光を頼りに、自室の安楽椅子に腰を下ろした。夏というにはまだ肌寒い。エトは茜色のブランケットを膝にかける。

「……列車だ」

 窓の向こう、列車の灯りが夜の帳を縫って遠ざかってゆく。かつてエトを乗せた列車は、時折夜中に動いていることがある。塔の子供たちが、あれは幽霊列車なのだと勝手な推測を飛ばしあっていたのを、よく覚えている。
 あの列車に乗れば、外へ出られるのだろうか。エトはぼんやりと考えを巡らす。けれども、外へ出たとて、小さなエトに何ができるのだろう。




 夜が明ければ、子どもたちは徐々に活動を始める。エトは制服に着替え、顔を洗い、髪をくくると食堂へ赴いた。何十人の子どもたちが小さな部屋でひしめきあっている。ひときわ、端のテーブルでは喧騒が飛び交っていた。二人の少年、レオとユーゴは額を付き合わせ、何事かを言い争っていたのだ。

「あれは、絶対シエルだったんだ!」
「どうせユーゴの作り話だろ」

 ユーゴは必死に弁明をする。鼻の頭に浮いたそばかすは、僅かに赤らんでいた。一方のレオは飄々とした様子で、パンを千切っては口に放り込む。
 レオとユーゴは双子の兄弟だ。くすんだ赤毛を掻き乱し、ユーゴはため息をついた。

「おはよう、どうしたんだい」
「おお、エト! 今日も相変わらず見目麗しいね」
「聞いてくれよ、エト!」

 助けが来たと言わんばかりに、ユーゴは両手を挙げた。エトは彼の隣に腰掛け、林檎に手をかける。

「エトはこの塔に来てから三月立つな。それなら知っているだろ、幽霊列車の話」
「ああ、もちろん」
「あの列車には誰も乗っていない、無人で走ってるって話だろ。まあ、あんな真夜中に走る列車なんて、聞いたことないな」

 エトは興味深そうに、双子の話に耳を傾ける。

「俺、見たんだ! 夜、シエルが塔の外へ出て、あの列車の方へ行く姿」
「あはは、夜中の外出は禁じられているだろう」

 エトは晴れやかに笑い声をたてた。しかし本当ならば、シエルは何故夜中に出歩いているのだろう。暗闇の中に混じってしまえば、彼の瞳はどのような色を見せるのか。

「寝ぼけてたんじゃねえのか」
「いいや、絶対違うね。俺の部屋は眺めがいいから、駅がよく見えるんだ」

 歯切れ良く言い切るユーゴに、レオは苦笑いする。双子でかくも違うのか、とエトは密かに感心した。どちらかといえば、レオの方が付き合いやすい。物知りで頭の回転が早く、何より面倒見がいいのだ。

「それにしたって、シエルが列車に乗ってどこへ行くっていうんだ」

 そういえば、とエトは首をひねる。大抵の子どもたちは、朝陽を浴びるとたちまち食堂へ集う。しかし、シエルの姿はどこにもいないのだ。

「……そういえば、シエルは?」
「あいつ、よくどこかへ消えるからなあ」

 ユーゴは不満そうに口を尖らせる。

「ねえ、それなら幽霊列車の噂、確かめないかい」

 エトの提案に、双子の兄弟は目を丸くした。彼女は至極楽しそうに、口元を緩めている。

「エト、本気か?」
「最近退屈してたんだ、塔の暮らしは代わり映えしないからね」
「俺、お前のこと優等生のいい子ちゃんだと思ってたぜ」

 レオは感心したように、顎を撫でた。

「それに、シエルばかり外に出るなんて、ずるいだろう」

 そうだ、彼ばかり卑怯なのだ。どこか浮世離れした彼の秘密ごとを、少しばかり暴いて見せたとしても、大して罰など当たらない。エニシダの娘の心は、不思議と弾んでいた。
 ネリーは頬に手を当て、眼前の友人を見つめた。彼女はいつものように、飄々とした笑みを携えている。

「その、本当に大丈夫なの」
「ネリーは心配性だね」
「だって、規律に違反するでしょう」

 とうに陽が落ちた談話室は、エトとネリーを除いて誰もいない。黄昏色のソファーに深く座り込み、ネリーはかけるべき言葉を探していた。
 ネリーが激昂した夜から、彼女は憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。時折、エトへの罪悪感を顔に出すものの、ネリーの心は穏やかだった。恐らくは、エトに認められたのだという自尊心が、惨めな嫉妬を封じ込めたのだろう。

「それなら、シエルだってそうだよ」
「そうだけど……」

 これ以上、何を言っても拉致があかないと察したのだろう。ネリーはそれきり押し黙ってしまった。

「それに、ネリーだって幽霊列車の謎が気にならないの?」
「わたくし、貴女にあんなことをした手前、あまり信用がないかもしれないけれど。エトに何かあったらと思うと、心配なのよ」
「大丈夫だよ、ああ、もうすぐユーゴたちとの待ち合わせだ」

 時計を見遣れば、門限は過ぎていた。

「じゃあ、もし何かあったら、先生方によろしく」
「エト! ……もう」

 ネリーは頬を小さく膨らまし、駆けゆくエトの背中を見送った。それにしても、彼女は、少年特有の澄み渡る清らかさを持ち合わせている。ネリーは友人を、まばゆく感じた。


***


「やあ、待たせたかな」
「いいや。カンテラは持ってきたか?」
「ああ、談話室からくすねて来たよ」

 落ち合う場所は、一階のエントランスと決めていた。昼間に見せる雰囲気とは違い、暗闇の広間はどこか物寂しい。神さまを象った彫刻や、壁に飾られた絵画は、たわやかな闇に溶けていた。
 エトはカンテラを掲げてみせる。年代物だが、使えなくはないだろう。ユーゴは満足そうに口角を上げた。

「よし、なら行こう。どうせ玄関は閉まっているだろ。俺、とっておきを知っているんだ」
「とっておき?」
「ああ、そうさ」

 ユーゴがそう言うなり、彼を先頭にして暗闇を進んでいく。ささやかなカンテラの明かりは、少し風が吹けば消えてしまいそうだった。
 足音を忍ばせ、うねるような廊下を右に左に歩んでいくと、たどり着いたのはすすけた物置部屋の前だった。普段ならば、あまり人が来ないようなところだ。いつのまにか、ユーゴの右手には鍵束が握られている。彼は手慣れた仕草で鍵を開けると、中に入るように促した。

「中は暗いから気をつけろよ」

 物置部屋の中は予想通りと言うべきか、木箱や家具が散乱し、酷い有様だった。けれど、エトの注意を引いたのは、それらではない。部屋の奥、地下へ繋がる階段があったからだ。

「この道は、古くから伝わる、秘密の地下通路なんだ。俺も上級生から鍵をもらってさ。今日まですっかり、忘れてた」

 淀みない足取りで、ユーゴは階段を降りてゆく。その後ろ、レオとユーゴが連れ立って、彼の背中を追いかけた。
 地下はそこまで深くないのだろう。やがてすぐに最後の一段を下りると、狭く細い廊下が、3人を手招くように待ち構えていた。しんしんとした静寂に、彼らの靴音が散っていく。

「君たちは、どれくらい塔で過ごしているんだ」
「5歳の頃に来たから、7年目くらいだな」

 せめてもの暇つぶしにと、エトが問えば、レオが指折り答えた。乳飲み子を終えて、たった数年余りの子が、親と引き離される。彼らの両親は、何を思ったのだろう。

「来たばかりの頃は、寂しかったろう」
「そうでもないさ、ユーゴがいたし、それに」

 レオの、ひそやかな息遣いが聞こえてくる。

「花の病は光栄なことだからな」

 それは彼らの、いいや、花に病める子どもたちの誇示だ。親元を離されようとも、故郷に立ち入ることが許されなくとも、神さまに愛されたというだけで、充分なのだ。彼らの母は、花の痣をいただいた時、悲嘆に暮れたのだろうか。それとも。

「ああ、もうすぐ地下を抜けるぞ」

 ユーゴの声に、エトははっとする。これ以上は、関係のないことだ。エトは自身にそう言い聞かせ、考えるのをやめた。
 地下通路の果ては、塔の外に拵えられた、煉瓦造りの納屋へ繋がっていた。納屋の心もとない扉を押しやれば、直ぐそこには夜の世界が待ち構えている。青草の匂いが鼻をかすめた。透き通る、藍色の空気がほほを撫でる。

「夜の空気なんて、初めてかもしれない」
「さすがに寒いなあ」

 双子の兄弟は、口々に感想を漏らしながら、清涼な空気で肺を満たした。彼らは5つで塔に来たのだから、夜の何とも知れぬ、はりつめた心地はさぞかし新鮮だろう。
 駅へ行くには、塔と湖を囲う森を、少しばかり抜けなければならない。道は舗装されているものの、鬱蒼とした影を濃く落とす木々は、不気味な静けさをたたえている。3人は慎重に、森の中を進んでゆく。

「それより、本当に今日、幽霊列車は来るのかい」
「本当だとも。あれは不規則に見えるようで、ちゃんと法則があるんだ」
「ふうん……」

 エトが小さく呟く。兄弟たちは、ひそやかな熱気に包まれていた。

「なあ、ユーゴ、本当に幽霊列車が来たらどうする」
「そうだな、取り敢えず、首都へ行って、お菓子や玩具をたんまり買い込むのもありかもな。ああ、でもそれだと神さまに背くことになる」

 彼らのやり取りを、エトは一番後ろで眺めていた。その姿に、微笑ましいとさえ感じる。彼らはまだ、齢12の子どもなのだ。ささやかな冒険譚は、彼らの小さな胸を満たすには、充分すぎるほどだ。
 エトが彼らのやり取りに加わろうと口を開いた時、誰かに腕を引っ張られ、茂みの中へ引き込まれてゆく。この暗闇の中だ、ましてや後方にいたエトの異変に気付くものはいない。カンテラは、先頭のユーゴに託してしまったのだ。エトが自身に絡みつく、何かを振り払おうともがいた時だった。聴き馴染んだ声が、耳をくすぐる。

「落ち着けよ」
「……シエル」

 じんわりと目が闇に慣れていく。シエルは掴んでいたエトの左腕を離し、そうして人差し指を口元へ遣る。目と鼻の先に並んだ宵の眸は、暗闇の中でさえ、ひときわ輝いているように思われた。エトは暫し少年の瞳に見惚れ、そうして、やっとのことで立ち上がる。既に、ユーゴとレオの背中はなかった。

「どうして君がここに」
「それはこっちの台詞だ」

 シエルは呆れたように顔を顰める。彼のしなやかな指先の間には、白い紙巻き煙草が挟まれていた。

「どのみち、あいつらはこのまま駅に向かえば、見張りの大人たちに捕まるだろうな」
「……煙草。こんな嗜好品、どこで手に入れたんだい」
「列車に乗って、首都まで行けば腐る程ある」

 そうして緩慢な動作で煙草をくゆらせるシエルは、ひどく円熟して見えた。エトは眉間に皺を寄せ、咎めるような視線を送る。

「君、本当に幽霊列車に乗っているのか?」
「幽霊列車だって。馬鹿馬鹿しい」

 堪えきれず、シエルが盛大に噴き出した。ひとしきり笑い終えると、彼は煙草をエトに突きつけた。鈍い月明かりの下、仄青い煙がゆらりと立ち上ってゆく。

「いいか、そんなものありはしない」
「じゃあ、どうしてシエルは……」
「なあ、どうしてここの子どもたちはら塔に閉じ込められなきゃいけない?」 

 その言葉の先を紡げなかったのは、シエルが遮ったからだ。身を清め、信仰を高めるためだと。つぶさに、そう言い切ることができないことに、自身に腹が立った。

「……煙草は良くない。背徳的だ」
「俺は神さまなんて信じてない」

 シエルは大仰に肩を竦める。月を背負うように佇む彼の姿は、何か神聖なもののように思えた。

「物事には、全て理由があるんだ」
「なら、ご教授願いたいね」
「時期にわかるさ。それより、塔へ戻ろう。大人たちがくる」
「レオとユーゴはどうなるんだ」

 毅然としたエトの態度に、シエルは僅かに驚いてみせた。そうしてお手上げだ、とも言いたげに、両手を軽くあげる。

「大人たちに見つかるだろうが、レオは模範的だ。反省文の一枚で済むだろうな。むしろ、その方が安全だろ」

 そう言いながら、彼はエトの手を掴むと、早足で帰路へ着く。幽霊列車は、シエルを首都まで連れてゆくためのもの。そして、大人たちが関係していることは、間違いない。エトは一つ一つのことを吟味し、咀嚼して、頭の中にしまい込む。とにかく今は、双子の兄弟の無事を祈るほかなかった。




「あの後、大変だったんだぜ。見回りの先生に見つかってさ」
「一晩中、反省文を書かされたよ。俺たちは悪い子です、ってな」

 翌朝、エトは双子の兄弟に会うやいなや、その後の顛末を聞かされた。彼らの無事に、安堵の息をつく。

「そういや、どうしてエトは途中で消えたんだ?」
「ああ……靴紐が解けてしまってね。それを結んでるうちに、置いてかれたんだよ」 

 何故だか、昨晩のことは胸にとどめて置かなければいけない気がした。二人は納得したのだろう、寝惚け眼を擦りながら、昨晩の脱走劇がいかに素晴らしかったかを、誇張気味に語っている。

 どうして、子どもたちは塔へ閉じ込められなくては行けないのだろう。

 その問いかけに、エトは未だに答えられそうになかった。