恋愛感情、依存心、決まりごと

 先に、踏み込みたくはない。踏み込まれたくもないんだ。でも、一緒に居てほしい。








「この街では、恋人同士になっちゃいけないんだよ」

 自分でも、びっくりするくらい、淡白な声だった。二人きりの図工室では、余計に張り詰めて聞こえてしまう。
 私は筆を止めて、彼の方へと顔を向けた。今日はなんだか、誰かと話していたい気分だったのだ。海の看病も終わり、3日ぶりに見た彼の顔は、いつもと何ら変わりのないものに見えた。

「いきなり、何?」
「なんとなく知ってるかなって」
「……いくら僕でも知ってるよ。だって僕もこの街の住民だしね」

 彼の言葉は頭では理解しているつもりだけど、納得まではできなかった。彼はこの街の住民、には相応しくない。どこか一線を画しているようにさえ思える。
 彼は黙したままの私に視線を投げかけると、口を開いた。

「正確にいえば恋人同士になってはいけない、ではないよね。その先の関係」
「……子供を作ってはいけない。おかしいよね、こんな決まり」
「うん、人が人を好きになるのは自然なことだと思うよ。次の段階に踏み込みたいのは当然の感情だと思うけど」

 そこで彼は言葉を区切った。理解できない。そう顔に書いてある。彼は感情に疎い人だ。

「で、突然どうしたの」
「午後八時以降の外出禁止」
「はあ?」

 彼は呆れたようだ。私はそれを無視して続ける。

「決まりごとが溢れすぎてる。最近は、特に」
「街からの脱走禁止、月一回の定期検診、薬の服用義務、監視カメラの設置……、まだまだあるね」
「平和だから、皆気づいてないだけで、これって監禁されているみたいだよ」

 監禁。自然と、言葉が出ていた。ああ、そうか、私たちは監禁されているのか。彼は全てを聞き終えた後、口角をつりあげた。その顔が今は妙に腹立たしく感じられる。

「でも、君達は今平和に生きている。代償が、今列挙した点であるなら、安いほうだよ」

 そうだ。私達は今の生活を受け入れている。けれど。反論したい。でも、上手く言葉が紡げない。

「それにしても、今日の君おかしいよ」
「うん。なんだか自分でもおかしいのはわかってる」
「ねえ、本当に大丈夫?」

 彼が近寄る。とうに私の視界は霞んでいた。透いた黒の髪、なんて綺麗なんだ。

「大丈夫、大丈夫。だいじょう、ぶ」
「ちょっと。ねえ、陸さん。陸さん! 陸!!」

 珍しく動転した様子の彼を最後に、私は意識を手放した。





 夢を見ていた。すごく、長い夢。そこには私と海と父さんと母さんがいて、すごく幸せで。たぶん、この街に来る前だ。何故ならあの忌々しい烙印が、腕になかったから。それで皆で笑いあって、一つの卓を囲んで、何を話しているかわからないけど、すごく幸せだった。


 だから、起きて目の前にあったのが彼の顔だなんて、信じられなかった。

「陸さん、おはよう」

 心なしか、彼の顔はうろたえているように見えた。でも、それは気のせいなんだと思う。次の瞬間には、元の飄々とした表情に戻っていた。鈍い思考能力の頭で、何とか状況を把握しようとする。私はベッドの上で寝ているらしい。部屋の装飾からして、たぶん保健室だ。私はゆっくりと身を起こした。

「……今、何時?」
「5時10分。3時間ずっと寝てたよ」
「もしかして、ここに運んでくれたの?」
「うん」
「……ごめん」

 素直に謝る。彼は長い長い溜息を吐きだした。どんよりと重たい空気が部屋に沈殿する。

「具合は、もう平気?」

 彼は私の顔を覗き込むように見つめた。目と鼻の先、瑠璃色の眸が二つ並んで、思わず吸い込まれてしまいそうになる。

「うん、熱とかでもなさそう」

 特に、気だるいとか頭が痛いとか、そういう症状はなかった。彼は首を傾げる。

「最近、寝てなかったからかな」
「寝てない?」

 海の看病で、寝てなかったのだ。海は昼間は穏やかだけれど、夜になるとよくうなされる。傍で背中を叩いて宥めてやることしかできない。それでもそうしていると、幾分か落ち着くようだ。薬の副作用、そう朝倉さんに聞いた。

「妹の看病で」
「だからって自分の体調を崩してちゃ元も子もないよ。陸さんは正真正銘の馬鹿だよ」
「返す言葉もない……」

 まさにその通りだ。これでは海に心配をかけてしまう。
 唐突に、冷たいものが頬にあたった。びくっと肩が跳ねる。

「はい、校長先生が陸さんに」
「あ、ありがとう」

 手渡されたのはペットボトルのスポーツ飲料だ。きんきんに冷やされていて、冷房がきいた保健室では寒いくらいだった。校長先生にも、迷惑をかけてしまったのだろう。申し訳ない。
 彼が近くのパイプ椅子に腰をおろす。その一連の動作だけでも、気品のようなものがにじみ出ていた。

「寝ていた時、すごく幸せそうだった」

 まるで、独り言みたいに彼が言った。よくよく注意しなければ、私に向けて言っているとは気づかないほどに。

「……昔の夢を見たんだ。街に来る前、の。街に来たばかりの時とか、その前のこと、あんまり覚えてないのに」

 瑠璃色の眼光に陰りがさした。瑠璃色よりも深い青、夜の闇をそのまま切り取った色だ。その変化に気づき、声をかけようとしたが、それよりはやく彼が言葉を発した。

「忘れていた方が、幸せなこともある」

 どこか冷たさを孕む声音に、私は一瞬、思考が止まった。どうして、そんなことを言うのだろう。

「そういうこと、あるの?」

私の問いかけに、彼は数度瞳を瞬かせた。

「……そうだね、僕にもあるかもしれない」

 それきり、彼は押し黙ってしまった。
 実際にあの頃の記憶を思い出そうとすればするほど、わからなくなる。それは、霧を掴もうと手を伸ばす感覚と似ていた。烙印を押されて、それで朝倉さんに連れられて、今住んでいるアパートを紹介された、というのが街での一番古い記憶だ。街に住むことになった詳しい経緯は覚えていない。そもそも、街の住民はどういった基準で選ばれるのか。街は何故存在するのか。あの灰色の壁の先に、何があるというのだろう。次々と溢れだす疑問に、思考回路がおかしくなってしまいそうだ。

「陸さん」

 名前を呼ばれる。底冷えするほどの冷たさはなくなっていた。

「とにかく、この話をするのは終わりにしよう」
「観月さんは」

 久しぶりにこの名前を呼んだ。それにしては、すんなりと口から零れおちてくる。

「……街のこと、どこまで知っているの」

 彼はかぶりをふった。これ以上、話すことはない、とでも言いたげに。

「君が知るべきではない」
「でも、知りたい」
「君の、陸さんのためを想って忠告しているんだ。もう、やめよう」

 彼の決意は思いのほか固かった。真摯な瑠璃色の双眸が私を捉えて、どきりと心臓が跳ねる。私の頭の中で、警鐘ががんがんと強く鳴り響く。私は、今すごく危険なことに足を突っ込もうとしている。そして、同時に彼は私に踏み込んでこようとしていた。それは、私にとってはとても嫌なことだ。悲鳴を飲み込む。いつかにもした、作り笑いを顔に張り付けた。

「……そうだね、やめよう」

 これを言うのが、精一杯だった。

 彼が私に抱く感情とは、同情であり興味なのだ。恐らく彼は自身の感情を理解できてはいない。彼は私を興味対象として見ているにしか、過ぎないのだ。それでも彼が私の中に踏み込んでくるのを認めてしまえば、彼に依存してしまうだろう。底なし沼のようだ。一度嵌まったら抜けだせない。頼ってしまえば、居心地がよくて、ずぶずぶとそのまま依存関係に発展していく。それがどんな感情であれ、求められている人に身を預けるのは簡単なことだ。でも、そうはなりたくはないと思う。あの人のようには、決してならないと決めたんだ。
 一度線を踏み越えて仕舞えば、私達は友人関係にも恋人関係にもなりはしないだろう。彼も、このことに気づいているだろうか。

 彼の視線が外される。内心、安心した。

「……まだ、外は明るいけど。どうする、まだ休んでる?」

 彼がパイプ椅子から立ち上がりながら尋ねた。首を横に振る。海が、待ってる。

「そっか。家まで送ろうか」

 彼からの、初めての申し出だった。彼は今までもそうしてきたみたいなそぶりで、手を差し出した。それを取る気にはさらさらなれない。
 しばらく身動きしなかった私に、彼は手をひっこめた。

「……ありがとう。でも、一人で帰れるよ」
「ならいいけど」

 彼は素っ気なく一言だけ発すると、私に背を向けた。
 
「じゃあ、また今度」

 そうして彼は足音だけを残して去っていった。
 これで、よかったのだ。彼との関係は進展させたくない。私はこのままの、曖昧な関係を気にいっているのだ。それがよくないと知っていても。