手探りの逃避行、自由のための手段

 あまりにも張り詰めた夜だ。鉛色の壁はいつもよりもちっぽけなものに思えた。




「そろそろ、行こうか」

 おもむろに彼が言った。私は海の亡骸を抱きしめる。もう会えないなんて、信じられなかった。気づけば私は、まだ生きているんじゃないかというどうしようもない希望にすり寄っていた。

「もうこの街は終わりだ。住民は彼女のように人でなくなり、軍に一掃されていく」

 彼は片膝をついて、手を差し伸べた。それはいつかにも見た光景だった。

「わかってる、わかってるよ。けど」

 海を抱きしめる手に力が加わる。彼は私に優しく語りかけた。

「このままだと、僕たちも捕まってしまうよ」

 彼は柔らかな動作で私を抱きすくめる。海を抱きしめてる私を抱きすくめてるという構図で、私はなかなか身動きがとりづらい。彼はこんなに積極的な接触をする人だったっけか。もう、海では感じることのできない温もり。もう全てを破棄したくて、私は彼に寄り掛かった。考えたくない。今起こっていることや、海が死んだことを。

「もういい。観月さんに任せる。全部、全部」
「……ありがとう。さあ、逃げよう」

 遠くで咆哮がきこえた。動物のような、でも確かな人間の声。終わりが始まっているんだ。私達は廃墟みたいなこの部屋から飛び出した。海は置いていく。全てが片付いたら、お墓をつくろう。だから、それまでは。

 外では方々から誰かの叫び声が耳に入ってくる。さっき彼は軍と言っていた。もう、この街にやってきて、一掃とやらをはじめているんだ。化け物になった皆を殺していく。私だって、海を殺したも同然なんだ。そう考えたら、変わらない。そういえば、なんで私は化け物にならないんだろう。私だって、病気なんじゃ。

「……陸さん」

 彼は足を止めた。私は目を見張った。だって、伊織君と白樺さんがいたのだから。伊織君は白樺さんの髪の毛を掴んで、引きずりまわしていた。白樺さんは化け物になっていなかったんだ。そのことに、少しだけほっとする。でも、この状況は一体。

「また会ったな、ねーちゃん」

 彼が私を守るように、一歩前へ出た。伊織君はぴゅうと口笛を鳴らし、腰にかけてあるホルダーのようなものに手を伸ばす。

「ねーちゃん達ってば、どこ行くの。もしかして、駆けおち?」
「君には関係のないことだよ」
「関係大有りだぜ? だって、お前やねーちゃんみたいな個体は保護しなきゃなんねえから。逃げ出しちゃあ困るよ」

 お互いが睨みあう。伊織君って、まさか。嫌な予感がした。

「伊織君は、何者なの」

 つい、声が出ていた。

「俺? 俺は、軍人様だよ。日本の平和を守るね」

 いつの間にか、伊織君はナイフを手にしていた。月光をうけて、伊織君のナイフが鈍く光る。伊織君がシニカルに笑った。

 伊織君がナイフを構える。しばらくは二人とも、様子を見て動かなかった。長い沈黙。それを破ったのは、彼でもなければ伊織君でもない。白樺さんだった。白樺さんは鋭く伊織君を睨みつけながら、口を開いた。

「……放しなさいよ」

 伊織君はいまだに白樺さんの髪の毛を引っ張ったままだった。伊織君は一切白樺さんを見ようとはしない。

「嫌だよ。だって、新薬飲んでも症状が出なかったってことは、やっぱり検体番号5348も特別個体だったってことじゃん、保護しないと」
「何の話よ」
「うっそ、街から何にも知らされてねえの?」

 伊織君は大げさに驚いた素振りをしてみせた。その顔に、憐みが混じる。

「うっわ、うっわ。教えちゃってよかったのかな、やっべー」
「教えなさい!」

 白樺さんが声を荒げた。ようやく、伊織君は白樺さんの方に顔を向けた。白樺さんが小さく悲鳴を漏らす。いつも冷静な白樺さんが怯えている。それくらいに、伊織君の表情は冷めたものだった。瞳の中にある、侮蔑の色。白樺さんはすぐに取り繕ったが、顔はひきつっていた。

「命令すんなよ、人以下の癖に」

 目で捉えきれないくらいの早さで、伊織君が白樺さんの首にナイフを押しあてた。白樺さんと目があった。白樺さんを助けたい。でも、伊織君が怖い。私はどうしようもない臆病者だ。

「ねーちゃん達、もし逃げたら№5348を傷つけることになるぜ? 殺さない程度に」

 逃げられなかった。逃げられるわけがなかった。私は、また人を殺す。

「どうでもいいよ、そんな人」

 彼が言った。白樺さんの顔は恐怖に歪んでいく。なんで、そんなことをいうの」

「どうでもいいって、ねーちゃん達の友達なんだろ?」
「僕はその人が殺されようがどうも思わない。陸さんと、逃げなきゃいけないんだ」
「お前、相当歪んでるなー」

 声を、出さなきゃ。ちゃんと、白樺さんを助けるって。深呼吸をする。はっきりと言おう。

「私は、白樺さんを助けたい」

 言えた。まだ緊張している。伊織君はぱっと白樺さんを解放した。

「さすがねーちゃん、友達想い」

 ナイフはしまう気はないようで、くるくるとまわして遊んでいた。よかった、死なないですんだんだ。白樺さんはぎこちなく喉を触っていた。けががないか確認しているようだ。

「寺井さん、ありがとう」

 白樺さんが頭を下げる。私は首をふった。

「白樺さんこそ、大丈夫だった?」
「ええ」
「……よかった」
「本当に、ありがとう」

 何度も礼を言われる。私は少しだけ笑ってそれを受け取った。これから、どうなるんだろう。よくないことが起きるんだろう、というのはなんとなくわかっていた。白樺さんを見捨てていたほうがよかったのかもしれないが、見捨ててしまったら私も人ではなくなるような気がして。
 伊織君はポケットから通信機のようなものを取り出した。

「こちら匂坂。隊長殿、応答願います」

 伊織君の喋り方はどこまでも淡々としていた。見た所私より年下なのだが、今の伊織君は大人びている。

「はい、目標……っな!」

 彼が突然通信機を奪い取った。伊織君はナイフを構えなおす。

「何してくれんの!」
「ごめんね、陸さん」

 私の方を向いて、彼は通信機を叩きつぶした。そしてそれを跡形もなく踏みつける。伊織君は姿勢を低く構えて素早く彼に詰め寄った。彼はそれをたやすくよける。乾いた舌打ちが響いた。彼はすぐに反撃に出た。鋭い蹴りが、伊織君に命中した。しかし体勢は崩さない。

「いってえ。№5348のことはどうでもいいわけ、ねーちゃん悲しむぜ」
「……観月さん、やめて」

 彼は私の言葉を聞いて、動きを止めた。伊織君は再び白樺さんの手首を引っ張り拘束する。

「どうせ逃げ切れないんだから、素直に国に従った方がいいと思うけど」

 白樺さんは、覚悟を決めたように静かに目を瞑った。その様子を見て、伊織君は訝しげる。

「……そうね、いくら抵抗したって自由になれないのよ」
「白樺さん?」
「私ね、一つ黙っていたことがあるわ。貴方は勘違いをしているようだけれど、私、新しい薬を元から飲んでいないの」
「っ、てめえ!」

 伊織君はナイフを白樺さんの胸元につきたてた。もう耐えられなかった。私はしゃがみこんで目を手で覆う。見たくない、信じたくない。

「生きてたってこの街から逃げられないなら、死んで自由になるわ」

 息も絶え絶えに、白樺さんが呟いた。後半の方は声にもなっていない。どさりと何かが崩れ落ちる音がした。たぶん、白樺さんだ。隣で、風がそよいだ。恐る恐る目を開ける。彼は白樺さんの胸からナイフを引き抜いたのだろう、気づけば伊織君に刃を向けていた。

「さすが、最高兵器。だって、動きが見えねえもん、お手上げだ」

 彼は笑顔だった。その声音もどこか嬉しそうに聞こえる。彼が両手をあげたのを見届けると、彼は私の腕を掴んだ。片方の手には、血に濡れたナイフを持ったまま。

「さっさと逃げろよ、もう止めないから。逃がした方が、面白そうだし」
「逃げよう」

 彼はそれだけ言うと、また駆けだした。
 人が死んでいく。私の周りの人がいなくなっていく。