日常の境界線、非日常の行き先

 知らなかったことに、手を伸ばしてみたい。いけないことであっても、ただ飼いならされて朽ちたくはない。






 学校を出てからも、憂鬱な気持ちは続いていた。途中で校長先生に会って、心配される程には、気が滅入っていたらしい。だからといって、すぐには家に帰る気分にはなれなかった。学校からアパートまでの道のりは近い。だけれども、今日ぐらいは遠回りをしてみても、いいだろう。
 人通りの少ない路地を歩く。夏だからまだ日は長い。少しだけ、夕暮れに染まる路地の向こう、見慣れたセーラー服があった。あれは、私の高校の制服だ。

「あら……寺井陸さん」

 その人は私に気がつくと、ほほ笑みを浮かべた。知らない人だ。艶のある黒髪を、胸元まで垂れるように伸ばしている。単純に綺麗だ、と思った。切れ長の瞳の上に、けぶるようなまつ毛が重なっている。一見して、知的な風貌だ。深窓の令嬢、という言葉がしっくりくる。

「初めまして。といっても、貴女は私のこと知らないでしょう?」

 くすくす。形の良い唇から、控えめな笑い声が漏れる。

「自己紹介遅れてごめんなさいね。私、白樺純子。二年三組の」
「あ、隣のクラスの」
「ええ、そうよ。前々から寺井さんとお話したいと思っていたの」

 何で私なんかと。白樺さんは別段からかっているふうでもなかった。上品に両手を胸の前で組んでいて、立ち方一つとっても楚々として洗練されている。ぱっと見た印象をいえば、花のような人だった。ヒマワリなどではなく、スズランのような。
 私はどう返答していいか考えあぐねていた。すると、白樺さんは白魚のような長い手を、私に伸ばしてきた。そっと、手を握られる。

「ゆっくりと話したいから、喫茶店へ行きましょう。時間は、まだあるわよね」
「え、ええ。まあ」

 曖昧な返事をしているうちに、ぐいぐいと手を引っ張られる。白樺さんは凛とした、自信に満ちた歩き方だった。日ごろ運動をしていない私には、追いつくことだけが精一杯なくらいに。

 路地を抜けると、商業地区に出た。路地と違って、活気に溢れている。白樺さんの足は淀みなく進んでいて、まるで人並みの方が白樺さんを避けているみたいだ。

「ねえ、寺井さん」

 不意に話しかけられる。

「貴女のこと、ずっと見ていたわ」
「……どういうことですか」
「朝倉智一。知り合いでしょう」

 すぐに反応できなかった。白樺さんに手を引っ張られている形になるので、表情はうかがえない。何故、朝倉さんのことを知っているんだろう。

「そうです、けど」
「あら。やっぱり」

 白樺さんが振り向いた。含みのある笑みにぞっとする。急に握られていた手が、ぱっとほどかれた。

「ついたわよ」

 白樺さんは目の前の建物を顎で指す。こじんまりとした、クリーム色の壁の建物だ。窓から趣味の良い調度品に彩られた店内が覗ける。客はあまりいそうになかった。鮮やかなオレンジ色の日よけの下、喫茶店マタンと書かれた看板が掲げられている。彼女は先に一人で店内に入ってしまった。私も一拍置いて、あとへ続く。

 店の中は想像通りというべきか、落ち着いた雰囲気の店だった。喫茶店のマスターであろう男性と話している白樺さんの背を見つめる。

「何、ぼんやりしているの」

 急に白樺さんに声をかけられた。ぼんやり、していたのだろうか。否定できない。今日の私はやっぱりどこかおかしい。


――それにしても、今日の君おかしいよ。


 耳の奥で、彼の言葉が甦った。どうして、あんなことを言われたのだろう。寝不足だったからかもしれない。だから普段考えつかないようなことを、言葉に発してしまうのだ。
 そうして悶々としているうちに、マスターに案内されて、店の奥の方の席についた。クラシックがささやかに流れている。どうやら客は、私達だけのようだった。

「私はアイスコーヒーを一つ。寺井さんは?」
「あ、えっと。私は……」

 慌ててメニューに目をおとす。柔らかい筆跡で、料理名が綴られていた。

「じゃあ、レモネードで」
「かしこまりました」

 マスターが恭しく礼をする。頭を下げた時、白髪が目についた。白樺さんは、右手で頬杖をつきながら、じっと私を見つめた。視線が絡み合う。白樺さんの瞳には、強い意志のようなものが感じられた。会ってまだ一時間もたっていないというのに、私は一つ確信した。私は、白樺さんのことが苦手だ。時折垣間見せる、人をのみこんでしまいそうなほどの威圧感。捉えどころのない所は、彼に似ていたけれど、そこだけは全く違った。なんとなく、居心地が悪くて、目をそらす。

「ここは、私のお気に入りの場所なのよ」

 白樺さんが言った。

「何かあったら、ここに来るの。すごく、心が落ち着くわ」

 確かに人目を気にせず、くつろぐことができそうだ。隠れ家のような雰囲気があった。

「貴女もそういう場所はあるかしら」

 私は、真っ先に図工室を思い浮かべた。次に、彼の姿。また会った時、普通に会話できるだろうか。
 図工室のことや、彼のことを秘密にしておきたくて、私は曖昧に笑っておいた。

「さあ、どうでしょう」
「……まあ、いいわ。本題に移りましょう」

 本題。自然と身体がこわばるのを感じる。白樺さんと話すことなんて、ないのに。

「私、単刀直入に言えばこの街が大嫌いよ」

 予想外の言葉に、面喰う。笑顔で大嫌いなんて、言ってることと表情があっていない。聞き間違えたのかと思ったくらいだ。

「嫌いって……。何でですか」
「理由を聞くのね。貴女なら、わかると思ったのに」
「わかりません」
「嘘はよくないわ。貴女は私と同じだもの」

 白樺さんと、同じ。てっぺんからつま先まで見たって、同じ箇所などないように思えた。白樺さんが頬杖をつくのをやめる。それが合図のようにして、マスターがグラスを盆にのせてやってきた。マスターは丁寧に飲み物を私達の前に置いていく。淡い水色のグラスもまた、マスターのセンスの良さがうかがえた。

「ご注文のアイスコーヒーとレモネードでございます。では、ごゆっくり」

 老いを感じさせない動きで、マスターはカウンターの方へと戻った。からん、と氷同士が涼しげな音をたててぶつかり合う。

「白樺さん」
「何かしら」
「同じってどういうことですか」

 白樺さんはアイスコーヒーを一口飲んだ後、ようやく言葉を発した。

「まず、そうね。貴女は周りと雰囲気が違うわ」

 最後に白樺さんは「私と一緒で」と付け加えた。雰囲気、そうだろうか。彼女は楚々とした、だけれども気軽に話しかけられないような、高嶺の花だ。小市民然とした私とは、全く異なるもののように思えた。

「どこが、ですか」
「例えば……ほら、貴女はただ、この暮らしを安穏と過ごしているわけではないでしょう。何がおかしいか、そして間違っているか、を考えているわ」
「……そうでしょうか」
「そうよ、私、こう見えても人を見る目があるもの」

 最自信満々に言い切った白樺さんだったが、すぐに顔を顰める。その表情の移り変わりに、私は唾を飲み込んだ。

「この街に利用されたくなんか、ないわ」
「利用?」
「そう、利用。利用されているのよ、私達は」

 半ば吐き捨てるように言い放つ白樺さんの顔は、先ほどとは打って変わって余裕がないように思えた。

「この街は大嫌いよ。制限のある自由なんていらないわ」

 白樺さんは、私の知らないことまで知っているんだ。この街の秘密。触れてしまったら、戻れないのかもしれない。それでも、私を突き動かしたのは一体何だったのか。

「あの」

 ひどく、口の中が渇いていた。レモネードをのむ。甘い、でもおいしくて、喉の奥がすっとした。海が好きそうな味だ。今度、紹介してよう。

「私、この街が嫌いかどうかはわかりません。でも、すごく息苦しいと思っています。それに、街には決まりごとがたくさんある」

 まだ言いたいことはたくさんあった。でも、上手く言葉にできない。白樺さんはそれでも黙って聞いてくれていた。僅かに感じる威圧感を無視する。大丈夫、怖くなんか、ない。白樺さんはしばらく何か考え込んでいたようだったが、やがて口を開いた。

「そうね。息苦しい、その表現が相応しいわ」

 そして白樺さんは話を続ける。入ったばかりはちょうどよかった冷房が、今では肌寒いような気がした。

「私は、この街に秘密があると思っている、それこそ私達には不都合な秘密が。だから、私はそれを調べているわ」
「……秘密」

 唾を飲み込む。先程から、話が追いつかない。

「ええ。ここまで外部から隔絶された状況、誰もおかしいなんて思っていないわ。それは、私達がそれを当たり前と思っているから。言いかえれば、誰も外の世界を知らないのよ。皆、この街に来る以前の記憶は消えてる。もちろん、私も」

 改めて街の異常性を叩きつけられ、何も言えなかった。昔の記憶がない。この街は、私達から何を隠そうとしているのだろう。答えは見つからない。

「でも、どうして私なんかに、そんなこと言うんですか」

 今私が一番わからないのは、そこだった。どうせなら、もっと重大な秘密を明かすのに、相応しい人なんて沢山いるだろう。よりによって、白樺さんとも接点のない私が。
 白樺さんは狼狽えもせず、静かに口を開く。

「今、街の状況は変わりつつある。悪い方向にね。だから、朝倉智一と関わりのある貴女と接触したかったの」
「朝倉さん? どういうことですか、朝倉さんと関わりって」
「朝倉智一には気をつけなさい。これは忠告よ」

 白樺さんは真剣だった。それでも、忠告を信じることができない。朝倉さんに気をつける? 何のために。朝倉さんは、いつだって私と海の味方だった。朝倉さんは普通の研究者で、それで両親の知り合いで、お人よしで、海の想い人で。

「今の段階で調べたことを話すことはできないわ。確証がないし、余計な混乱を招くだけだから。けれど、さっき言ったことは覚えておいて」

 白樺さんが立ち上がる。いつのまにか、アイスコーヒーは氷だけになっていた。白樺さんは財布を取り出すと、千円札を一枚テーブルに置いた。

「私、もういかなくちゃ。これはおごり」

 それだけ言い残して、白樺さんは颯爽と立ち去って行った。残された私は、白樺さんが言った忠告の意味を考え続けた。

 街の秘密、朝倉さん、昔の記憶。やはり、よくわからない。