晩餐会にて

 私は、15の時に恐ろしいものを見ました。それ以来、生きている心地がしないのです。ずうっと夢を見ているような気にさえなってしまいます。私ももう長くはありませんから、思い出せる限りのことを書き留めておきたいのです。あれは、本当に現のことだったのでしょうか。



 私はロイストンという辺鄙な田舎町に生まれました。父は腕利きの医者で、母は爵位を持つ名家の出でした。ですから裕福とはいわずとも、暮らし行きはけして不自由ではなかったのです。私は敬愛する両親に育てられ、一つの不満もなく、まさしく幸福そのものでした。
 ロイストンは有り触れた田舎町でした。唯一の特色は、妖精やドワーフなど、その手の奇譚が多かったことでしょう。悪戯をした幼子がいると、決まって大人は取り替え子の話をしたものです。目には見えなくても、確かに口伝えの伝承は、暮らしに溶け込んでいたのです。時折そういった風習を聞きつけ、奇特な資産家がやって来ます。キングストン一家も、そうでした。
 あれは私が9つの頃でしょうか。町の外れにある、大きなお屋敷に買い手が現れたと大騒ぎになりました。そうして1ヶ月後、キングストン一家が越して来たのです。どうやら大層な資産であるらしく、たちまち町中の噂になりました。私の家はロイストンの中でも権力を持っていましたから、すぐにキングストン一家から晩餐に招待されたました。その夜のことは、鮮明に覚えております。とびきりのお洒落をしました。愛らしい梔子色のイブニングドレスを着て、金の髪には銀細工の髪留めをあてがいました。同じく正装をした両親に手をひかれ、私たちは古めかしくも美しいお屋敷に向かったわけです。

「イヴ、くれぐれも失礼のないように」
「わかりました、お父様」

 馬車に揺られていると、父が私を諌めました。けれども当の私は、突如舞い込んで来た非日常に心を躍らせていました。キングストン一家には、家長のロナルド・キングストンと、2人の子供がいるようです。奥様は数年前に病で亡くなったと聞きました。
 お屋敷に着くと、私たちを迎えたのは人の良さそうな家政婦でした。労いの言葉をかけ、すぐに中へと案内されました。私はお屋敷を通して、きっと御伽噺のお城を夢想していたのでしょう。お屋敷は清潔で何もかもが完璧に思えたのです。私はすぐにこのお屋敷を気に入りました。もちろん、キングストン一家もそうでした。ロナルド・キングストンは非常に愛嬌のある方で、私たちに会うなり、快活な握手を求めました。大柄でしたが、紳士然とした服装や気遣いは誰よりも劣らなかったでしょう。
 しかし、一等私を魅了したのは、2人の子供たちでした。1人は私と同じ年頃の、美しい少女です。名はレイチェルと言いました。暗いブラウンの巻き毛にグレーかかった双眸、なによりもすうっと透き通った肌の色。人形のようでした。幼いながら、私は彼女に取り入りたくて、必死に言葉を探しました。けれども、純粋な美を前にして、言葉など不要だったのでしょう。私はただ立ちすくみ、曖昧な笑みを浮かべることしかできませんでした。

「私、レイチェル・キングストン。あなたのお名前はなあに?」

 レイチェルはドレスを摘んで、見事なお辞儀をしました。私も慌てて、後に続きます。

「は、はじめまして。イヴリン・メイブリックよ」
「イヴ、よろしくね。こちらは弟のニコラス」

 レイチェルに手招きされ、背後から少年がおず、と出てきました。ニコラスは、退廃的という言葉を体現したような少年でした。髪や瞳の色、顔の作りはレイチェルとそっくりでした。しかし纏う雰囲気は対称的なものだったのです。

「ニコラスは私の3つ下なの。この子、恥ずかしがり屋だから困っちゃうわ」

 レイチェルは鈴が鳴るような笑い声を立てました。ニコラスは顔をほのかに赤らめ、姉の背に隠れてしまいます。その振る舞いに庇護欲を掻き立てられ、私は身を屈めてニコラスに笑いかけました。

「はじめまして、ニコラス。私も人見知りな方だから、貴方の気持ちがわかるわ。よければ、貴方の良き理解者になりたいのだけれども」

 思えばこれが、私が犯した最初の過ちでした。しかしどうして、この儚くも綺麗な少年に冷淡でいられましょう。彼に優しく手を差し伸べること、これが当然の義務のように感じられたのです。
 晩餐会はこの上なく和やかな調子で始まりました。ロナルドは如才ない持て成し手でありましたから、すぐに父や母は彼に親しみを覚えました。品の良い卓子の上に並べ立てられた、華美な料理の数々にも、両親は感嘆いたしました。
 一方レイチェルと私は、すぐに打ち解けました。会話の中で、私たちは趣味が似通っていることを発見しました。食べ物の好みや、お気に入りの詩、暇な時間の潰し方まで、どれも一緒だったのです。私はこのこと知った時、大層心震わせ、この少女は掛け替えのない友となるであろうことを予見しました。事実、齢15の頃まではそうだったのです。恐らくは、あのひどく陰鬱な出来事が起こらなければ、私たちの友情は続いていたでしょう。さておき、レイチェルも私を気に入ってくれたことは、最上の喜びでした。
 豪華な夕食をとり終えると、レイチェルは彼女の子供部屋に案内してくれました。ニコラスは3歩後ろから、所在なく着いてゆきます。

「私たちのお母様はとても美人だったのよ」

 部屋に着くなり、壁に掛けられた写真を指差しました。そこには赤ん坊を抱えた、顔立ちの整った女性が微笑みを携えています。

「本当、とても綺麗ね」

 私は賛辞を惜しみませんでした。けして、世辞で言っているわけではありません。本心なのです。レイチェルは私の相槌に、大変満足そうに頷くと、葡萄色のソファに腰掛けました。そうして空いている隣の席を軽やかに叩き、私をそこへ座るように誘うのです。私はけして抗わず、控えめに座りました。ニコラスはというと、姉の顔色を恐々と伺った後、部屋の隅にある安楽椅子に、小さな体躯を収めました。

「ねえイヴ、私たちってどうやら仲良くなれそうじゃない?」
「私もよ。とっても嬉しいわ」

 レイチェルの瞳は、眩いばかりの期待で輝いていました。きっと、恐らくは私もそうだったのでしょう。互いにいろいろなことを話しました。その中でわかったことは、やはり彼女は聡明であるということでした。私には到底考え付かないことを、さも当然の顔をして話すのです。けれども彼女はけして驕ることをしませんでした。たった9つの少女が、かくも完璧であり得るのでしょうか。

「ああ、それでね。ちょうど叔母さまから頂いた珍しい絵本が書架にあるわ。ちょっと待っててね」

 確か、好きな作家の話題に飛び乗った頃だったように思います。唐突にレイチェルは立ち上がり、部屋を後にしました。残されたのは、私とニコラスの2人。私はここぞとばかりに、ニコラスに話しかけました。

「ロイストンは気に入ったかしら」

 いきなり話しかけたわけですから、ニコラスは驚きで数度瞳を瞬かせました。そうして力強く、目一杯に何度も頷くのです。その小動物のごとく愛らしい様に、私はつい頬を綻ばせました。

「ねえ、イヴリン」

 まさしく消え入りそうな声でした。ニコラスは束の間の逡巡を経て、次の句を継ぎます。

「妖精って、本当にいるよね?」

 思いがけない問いかけに、私は僅かに当惑しました。けれども当時はまだ幼い少女でありましたから、妖精やドワーフなどの幻想めいた話を信じておりました。加えてニコラスと近しくありたいという願いから、私はそれを肯定したのです。

「私は信じているわ」
「でも、姉様はそんなものいない、って言うんだ」

 ニコラスは悲しげに俯きました。伏せられた、けぶる睫毛から覗かせる神秘的な灰色の両眼は、かすかに潤んでいました。

「きっといるわよ。この前も私が3番目に好きだった髪飾りがなくなったの。あれは妖精の仕業ね」

 それから、ニコラスは徐々に心を開くようになりました。私には兄弟というものが居ませんでしたから、ニコラスという存在は本当に新鮮だったのです。
 レイチェルが戻ってからは、3人で絵本を眺め、言葉遊びなどをして楽しみました。時が経つのは早いもので、時計の鐘が2度ほど鳴った後、帰路につきました。帰りがけ、レイチェルとは手を取り合い、再会の約束を交わしました。こうして、あの夜は締めくくられたのです。