最終話

 やがては葬列も遠ざかり、遠巻きに見ていた群衆たちも、散り散りになった。聖櫃は郊外の霊園へと送られて、後に残されるのは墓石ひとつばかりだ。
 花に病める子供たちは、ただひたすらに、立ち尽くしていた。今でもロランの亡骸は、エトの瞼の裏に焼き付いている。遠目からではあったが、はっきりと見えた。果てなく透き通ったロランの表情。怒りだとか悲しみだとかを超越して、そこにあるのは凪いだ静けさだった。

「馬鹿なやつだ」

 シエルの声は僅かにかすれていた。彼は俯き、じっと石畳の地面に視線を注いでいる。

「不確かなもののために死ぬなんて、どうかしてる」

 それは、長らく彼が秘めてきた疑問だった。彼は、胸に花開いたクレマチスが、ひどく厭わしかった。だからこそ、自ら堕落を望んだのだというのに。

「……シエル」

 エトは、静かにシエルの傍らに寄り添う。

「私は、塔に戻ろうと思うんだ」
「は、エト、どうして」

 シエルは顔を上げ、エトに掴みかかる。エニシダの娘はそうっと目を瞑り、首を横に振った。

「私はずっと、母さまの言う通りにしてきた。母さまが望むような子どもを演じていたよ。だから、実のところ、神さまなんて信じたふりをしていたのかもしれない」
「だったら、塔に戻るなんて」
「私はね、シエル。君が塔を出ようといってくれた時、嬉しかったんだ。少年のようなエトではなくて、なんだか私自身に誘いかけてくれた気がして」
「お前は、お前だろう」

 エトが柔らかく微笑む。友の死に心の底から涙を流し、真っ直ぐな言葉を投げかけてくれるこの少年を、エトはまばゆく思った。健やかな魂というのなら、シエルこそがそうではないか。

「私は、この短い逃避行の間で、ずっと考えてきたんだ。私が本当にしたいことって、なんだろうって」

 ロランは自身の信じるもののままに、最期を遂げた。それならば、シエルもまた、自らの意志に従って、神に背く道を選んだのだ。そのどちらもが正しくて、けれども確かなことなど何一つない。
 このまま塔を離れてしまったのならば、きっと同じことを繰り返す。母の代わりに、シエルに依ってしまう。そんなのは嫌だ、とエトは否定する。

「ロランの死に顔を見たとき、ひたすらに綺麗だと感じたんだ。それもまた、命の在り方の一つなのかもしれないな、って。正直、未だに信仰なんてものは、よくわからない。でも、自分の気持ちに向き合わずに塔から逃げることは、したくないんだ。君のように、しっかりと自分の目で見て、それから見極めたい。それじゃあ、駄目かな」

 シエルの眼が大きく見開かれる。きっと生涯で、シエルよりも美しい眸を持つ人とは出会わないのだろう。そう、エトは漠然と思った。

「命は惜しくないのか。もしかしたら、死ぬかもしれない」
「自分で答えを見つけるまで、死ねないよ。それに、ネリーたちだって居る」
「どうしようもない、お前は大馬鹿だ」

 吐き捨てるように言うと、それ以上、シエルは引き止めることをしなかった。何を言っても、エトは塔へ戻る。そういった、確信めいたものがあった。
 どちらからでもなく、二人はゆっくりと駅舎へ向けて歩き出した。目抜き通りには、もう厳粛とした雰囲気はない。葬列は幻のように去ってしまった。仕立ての良い服を着た大人たちが、忙しなく行き交うばかりだ。

「あいつは、ロランはいいやつだったんだ」
「……そうだね」
「兄のように、思ってたんだ」

 シエルは、昨日のように泣いてなどいなかった。ただ彼方を見据えている。

「シエルは、これからどうするの」
「この歳まで待ったんだ、探せば働き口くらい見つかる」
「そっか。シエルも、大人になるんだね」

 いつしか、彼の花が枯れる日が来るのだろう。声は低くなり、身体つきは青年のものになる。

「もし、私が信仰の果てに死んだのなら。落ち着いてからでいい、墓参りに来てほしいんだ」
「まだ、わからないだろ」

 ゆっくりと、諭すような声色だった。それは願望だったのかもしれない。死が肉薄した塔の中で、シエルにとってエトはまさしく人間らしく思えた。ロランに置いて行かれた自分のために、泣いて悲しんだエト。だから、塔を出ようと誘いかけたのだ。

「お前が大人になることを選んだその時は、会いに行く」

 エトは、密かに目を丸くした。置いて行かれることの寂しさを、誰よりもわかっているシエルだから、こんなにも真っ直ぐなのだ。きっと、ふたり、交わした約束は守られるのだろう。同窓の死を堪え続けたシエルと、兄の亡骸に縋り続けたエト。死に聡い二人ゆえに、手を取りあって塔を飛び出したのだ。脆く、美しい植物たちを蒐集した、あの塔を。








 かくして、揺蕩うようなひととせが巡る。
 エトの意識が、ゆっくりと浮上してゆく。烟る長い金のまつ毛を数度瞬かせれば、翡翠の双眸が顔を覗かせた。彼女は列車の窓枠に肘をつき、はるか彼方に望める双子の塔を眺めた。
 もう、少年のまがいものはいない。なだらかに波打つ金の髪を下ろし、きなり色のワンピースを纏う娘は、かつての約束を果たしにゆく。


植物標本