束縛と自由、しじまの街

 気味の悪い静謐に、私は耳を塞ぎたくなる。やはり、この街は歪だ。








 月並みな表現だけれども、茹だるような暑さに、私は辟易していた。ここ一週間で最も暑い日らしい。首筋に伝う汗が気持ち悪い。よりによって、何故こんな日に出かけねばならないかというと、単純に冷蔵庫の中に食糧がないのだ。海は昨日朝倉さんと出かけてから、風邪をひいてしまい家で休んでいる。元々身体は丈夫な方ではない。一人海を家に残すのも不安だけど、まずはしっかり栄養を確保するために食糧の買い出しに出向かなければならない。というか、最近めんどくさがって、素麺ばかりお昼ごはんにしていたせいもあるのだろう。反省しなければ。
 近所のスーパーで買い物を終えて、一歩店の外へ踏み出せば、だるいくらいの熱気が襲ってくる。8月といえば、夏休みがあるから好きだ。けれどもこの調子では、嫌いになってしまいそう。

「あ、陸」

 早く帰らなくちゃ。この鬱陶しい暑さと蝉の声におさらばしたい。トートバッグを握っている手が嫌に汗ばむ。

「おーい、陸」

 そういえば、学校で出た課題に手をつけていない。夏休みは始まったばかりだけど、課題の量を見る限りじゃ、今からコツコツやらないと、終わらないかもしれない。高校生になってうんざりするのは、格段に増えた課題の量だった。

「陸!!」

 思い切り耳元で叫ばれた。私は声の主を睨む。

「いきなり叫ばないでください! ……朝倉さん」
「何回も呼んだろうが」

 顎を撫でながらぶつくさと悪態をつく朝倉さんは、いつにもまして暑苦しい恰好をしていた。長袖の白衣に無造作にあちこち跳ねてる黒髪、極めつけには三白眼で子供なら泣いて逃げ出すような強面な容姿、我が妹ながら何故こんな人が好きなのか理解に苦しむ。根は良い人なんだけど。

「昨日は海がお世話になりました」
「いや、こっちも楽しかった。最近しばらく研究漬けになってたから、いい息抜きだ」

そう言って、朝倉さんは欠伸をした。寝不足なのだろう、この街の研究者はいつも忙しなく働いている。

「お疲れ様です、でも、朝倉さんまで体調を崩さないでくださいよ」
「俺まで、って。おい、まさか、海はまた……」

 その続きは朝倉さんは何も言おうとしなかった。ただ私は縦に頷いて、安心させようと笑顔を作る。

「大丈夫です、微熱はあるようですけどただの風邪ですから」
「……そうか」
「心配させて、すみません」
「いや、いいんだ。それじゃあ、呼び止めて悪かったな」

 朝倉さんが気まずげに片手をあげて、足早に去っていった。
 朝倉さんは、良い人だ。外見は怖いけど、それを差し引いても。朝倉さんは、私が頼れる唯一の大人だ。だから、時々不安になる。知らず知らずのうちに、私は――私達は朝倉さんの優しさに寄り掛かっているだけではないのか、とか。海が朝倉さんに向けているのは依存心ではないのか、とか。
 朝倉さんの後ろ姿を眺めながら、そうぼんやりと思った。




「ただいまー」

 いつも以上に長く感じられるアパートの階段を登り、小さな居城へ帰る。やはり、我が家が一番落ち着ける。

「お姉ちゃん、お帰りなさい」

 パジャマ姿で、居間の方から海がやってきた。足元もどこかおぼつかず、顔色もいつもより赤い。私は駆けよって、おでこを触る。やはり、朝より熱くなっている気がする。

「こら、ちゃんと寝てな。治るものも治らないよ」
「うん、でもお昼ごはんの支度とか、洗い物とかしなくちゃ……」
「駄目! 今日はずーっと寝てなさい」
「うん……」

 分かっているのか分かっていないのか。曖昧な返事をした海を、布団へ戻るように促す。全く、出来すぎる妹というのも困りものだ。溜息を一つつき、台所へ向かう。熱が出た時は、林檎をすりおろしたのを食べたがる。スーパーで買った林檎をバッグから取り出して、包丁でするすると剥いていく。途中で皮が途切れて、ぽとりとシンクにおちた。

 こうしていると、雑多な感情が四方から押し寄せてぐちゃぐちゃになる。考えなくちゃいけないことや、明日の天気はなんだろうとかどうでもいいようなことまで、頭の中の大部分を占拠する。こういうのは、一種の病気なんだと思う。単純な作業をしていると、たまに精神がぐらぐらと不安定になるのだ。それをぐっと心の中に押しとどめて平静を装うのは、結構我慢のいることだった。

 結局、林檎を剥き摩り下ろすのに予想以上に時間を要してしまった。駄目な姉だ。ついでにと作ったジンジャーティーもお盆に載せて、海の部屋の扉を叩く。

「海、林檎のやつ作ったよ。入るね」

 返事は無かった。それでも私は扉を開ける。海は規則的に寝息をたてていた。起こさないようにと盆を置こうとしたら、海がその大きな眼を眠そうに開けた。

「お姉ちゃん……」
「具合はどう?」

 海の顔を覗き込む。頬に朱色が差しているが、苦しさは感じられない。

「ん、平気だよ」
「良かった。はい、食欲なくてもこれなら食べられる?」
「わ、林檎だ。ありがとう……」

 緩慢な動作で盆の上の小皿に手を伸ばす。私はそれを座りながら見つめていた。スプーンで口に運び、時間をかけながら咀嚼していく。

「おいしい」
「よかった。あ、そうだ」
「なに?」
「朝倉さんにさっき会ったよ」
「えっ!?」

 海の動きが止まる。俯きがちだった顔が、私の方へ向けられた。熱とは違う赤面した表情に、私はつい笑ってしまった。

「なんて言ってたの?」
「昨日は楽しかったって」
「そっかあ……」

 心底嬉しそうに顔を綻ばせる。海のことは応援しているけれど、どこか苦い気持ちがあった。朝倉さんは、良い人だ。なんで素直に認めてあげられないのだろう。やはり、まだ昔のことを引きずっているのだ。自分のことながら、嫌になってしまう。

「ごちそうさまでした」
「あ、もう食べ終わったんだね」

 林檎とジンジャーティーを飲み干すのを見守ると、私は立ちあがって部屋を出て行こうとした。

「お姉ちゃん……」

 よわよわしい声で呼びとめられ、振り返る。熱で潤んだ眼差しで、こちらを見つめている。

「何?」
「えっとね、……ううんなんでもない」
「何かあったら遠慮しないで言ってね」
「……うん、ありがとう」
「それじゃあ、また来るから」

 そう言い残して、静かに扉を閉める。海は遠慮がちだ。こういう時くらい、頼ってくれてもいいのに。
 盆を台所に片づけて、居間の机に課題を一式広げた。蝉の鳴き声が二重にも三重にも響き渡り、いやに耳に残る。シャーペンを握ってもやる気など出るはずもなく、悪戯にノートの隅で落書きに満たないものが形作られた。ここにきて、彼のことを思い出す。毎日のように彼に会っていたせいか、すごく違和感を感じる。いつのまにか私の日常に彼が浸透していたのだろうか。
 数学の宿題を数問解き終えて、とうとう悲鳴をあげた。暑さは思考を鈍らせる、と思う。

「ごめんくださーい」

 ちょうど私が宿題を放り投げていると、ピンポンと軽快なチャイムの音が鳴る。重い腰をあげて、玄関に急いだ。

「あ、中田さん。こんにちは」

 お隣の中田さんは、汗をかきながら立ち尽くしていた。中田さんはやや恰幅の良い普通の主婦だ。人柄がよく、何かと私達姉妹を気にかけてくれる。

「はい、これ。回覧板よ」
「ありがとうございます」

 頭を小さく下げる。中田さんはうんざりしたように溜息をついた。

「もう、最近暑くて嫌になっちゃうわ」
「そうですね、今日は真夏日らしいですし」
「あ、でもね。夜中は窓を開けて寝ちゃだめよ。物騒なんだから」
「物騒?」

 神妙な顔で中田さんが頷く。

「そう、回覧板に書いてあるけど……。不審者が現れたらしいの」
「この街に、ですか?」
「ありえないと思うでしょ? でも本当らしいのよね。とにかく気をつけて。不審者が出てきたら私の部屋に駆けこみなさい!」
「は、はい。わかりました」

 中田さんの気迫におされて、つい半歩下がってしまう。中田さんは「それじゃあ戸締りはしっかり!」と念をおしてから帰った。人間関係に恵まれてるな、本当に。

 そうして居間に戻って、回覧板をさっと眺めた。


 不審者出没、注意せよ。午後八時以降は外出禁止。


 要約するとこういうことで、詳しい情報は何も得られなかった。この街は不透明だ。住民だというのに、知らないことが多すぎる。皆、皆目隠しをされているのだ。
 自由と束縛。この双方が均衡を保ち、私達の生活は成り立っている。

 
 やはり、この街は歪んでいる。