日常がひっくりかえる。大切な人が消えていく。守りたかったものは、もういない。
そこからの記憶は曖昧だ。朝倉さんに連れられて、研究所までやってきて。白樺さんは、後から来た別の研究所の職員に取り押さえられていた。研究所に着くと、目隠しをさせられて、無音の研究所内を歩いた。
「ここだ、目隠しをとれ」
私は大人しく従った。眼前には鉄格子。ここは、牢屋なのだろうか。朝倉さんは私を牢屋に押し入れ、鍵をかけた。あまりに事務的な態度。本当に、私の知っている朝倉さんなのか。朝倉さんはそっと鉄格子に触れた。
「俺は、お前には知られたくなかったよ」
「……何を、ですか」
「この、街のことを」
朝倉さんは、俯きがちにそう言った。
「それにしても、その髪飾り。付けてくれるのは嬉しいが、警戒心がなかったな」
「……もしかして」
朝倉さんが私と海にくれた、プレゼント。1週間つければ、願いが叶う。絡まった思考の糸が、一つの流れになってゆくのを感じる。どうして、朝倉さんに居場所がばれたのか。それは、この髪飾りに起因しているのではないか。
「……じゃあ、大人しくしておけよ」
朝倉さんの声が牢屋にこだまする。ああ、そうだ。私は、私達は病気なのだ。だから、隔離されていて。朝倉さんはそれ以上は何も言わずに背を向けて去っていった。袖を捲る。相変わらず烙印が存在していた。白樺さんはどうしているだろう。私と同じで、牢屋にいれられているのかな。ごろんと寝ころぶ。冷たい床だ。本当に、冷たい。
それから何時間かして、足音が鳴った。私は跳ね起きて、足音の主を見つめる。その人は、いつもの子供みたいな笑みを浮かべていた。
「やっほ、陸ちゃん。元気?」
「律さん!」
律さんは何か黒いものをつまんでいた。あれは、鍵だ。律さんは鉄格子に額をつけ、しゃがみこむ。私に見せつけるように、鍵をぶらぶらを回した。
「閉じ込められてるってきいて、助けに来たよ」
「出して、くれるんですか」
「もちろんよ」
ウィンクを一つして、鍵穴に鍵を差し込む。かちゃりと音がして、牢屋が開いた。
「なんで出してくれたんですか」
「なんでって、なんでだろうなあ」
「理由とか、ないんですか?」
「強いてあげるとすれば、自由になりたかったんだよねえ。国の敷いたシナリオ通りじゃつまらないっていうか。最後に一花咲かせたかっていうか。ぐちゃぐちゃにひっかきまわしたかってっていうか。ま、用済みになる前の最後の反抗かなあ」
あはは、とのんびり律さんが笑った。笑う要素がどこにあったというのか。
「それより、牢屋からでないの? あたし、気まぐれだからまた閉めちゃうかもよ」
私は慌てて牢屋からでる。律さんは満足げに頷いた。こんなことして、いいのだろうか。律さんの口ぶりからすれば、これは律さんの独断なわけで。ああもう、わからない。
「陸ちゃん、妹いるでしょ」
「……はい」
「じゃあ急がないとねえ。近道だ!」
律さんが私の手をひいて走り始めた。どうやらここは研究所の地下だったらしい。走っている間、他の職員に会うことは無かった。それどころか、人気すらない。10分もたてば、私達は無事に外に出ることができら。たぶん、研究所の裏口だろう。外の空気を吸い込んで、肺を満たす。
「いい、変な人とか、物音がしても絶対無視だよ。たぶん、陸ちゃんには危害を加えないと思うけど。っととと、きたきた」
律さんがにやりと口角をあげる。律さんの視線の先には、彼が居た。肩で息をしている。律さんは私の背中を強めにおした。
「行って来い、少年少女!」
「あの、律さん!」
「ん?」
言わなければ。私は叫んだ。
「ありがとうございました!」
「おうよ! そこのオリジナルにもよろしくねえ」
オリジナル。オリジナルってなんのことだろう。疑問を呈している間に、律さんは私の視界から消えてしまっていた。
「陸さん」
彼に呼びかけられた。
「観月さん、どうしてここに」
「詳しい話は後だ。行こう、時間がない」
観月さんは駆けだした。私も一拍遅れてそれについていく。
「どこに向かってるんですか」
「陸さんの家」
「へ」
「もう、最後かもしれないんだ」
何の、とは聞けなかった。彼の声音が、あまりにも悲痛で。
こうして真夜中に彼と会うのは久しぶりだ。そう、あれは初めて彼に会った時以来。あの人――陽菜さんと別れて、何もかもが嫌になった夜。衝動的に小学校に忍びこみ、彼と出会った。
アパートには無事辿り着くことができた。街はいつも以上に静謐で、月並みな表現だけれども、世界には私と彼以外が消えてしまったみたいだ。正直にいえば、気味が悪い。
「海!」
声を張り上げる。部屋は電気がついていなかった。居間に海の姿は無い。となると、海の部屋か。私は海の部屋のドアノブに飛びついた。けれど、一向に開く気配を見せない。鍵がかかっているのだ。うんともすんともいわない扉を前にして、私は扉を手のひらで何度も打ちつけた。
「海! いるんでしょ、開けて!」
返事はない。代わりに嗚咽が聞こえてきた。
「海!」
「……陸さん」
それでも扉を鳴らす私に見かねたのか、彼は手を私の肩に置いた。
「たぶん、これから陸さんが見るのはあまりに残酷すぎる真実だ。それでも、知りたいんだね?」
「どうでもいい! 海が泣いてるなら、私は」
吠えるように私は言った。海がこの部屋の中で、泣いているんだ。
「……わかった。陸さん、下がってて」
言われたとおり、一歩下がる。彼は扉を蹴りあげた。穴が、空いている。でも、私を驚かせたのはそのことじゃなかった。
「……海?」
部屋の隅で、海がうずくまっていた。いつもと様子が違う。血を連想させる赤い瞳が、闇に浮かんでいた。焦点が定まっていない、虚ろな視線。
「嫌あ……。お姉ちゃん、見ないで」
暗闇に慣れてきた目に映ったものに、私は言葉を失った。海の爪は異様なほど鋭く、そして長かった。滑らかだった肌は、黒い痣で覆われている。海の風貌は、少なくとも私には人間に思えなかった。
「見ないで、私を、見ないで」
ごつごつした指が一瞬煌めいた。あれは、朝倉さんからもらった指輪だ。たまらなくなって、私は海に駆け寄る。
「陸さん!」
「こないで!!」
海が私の首元めがけて飛びかかった。バランスを失い転倒する。海は私に跨り、鎖骨あたりをかみついた。重い痛みが走る。明らかに海の歯は人間のそれではなかった。まるで、狼の牙みたいだ。血の匂いが鼻をかすめる。
彼が海を押さえつける。ようやく私は海から解放された。鎖骨から、一筋の血が流れる。でも、そんなことより海だ。海は髪を振り乱しながら、呻き声をあげている。
「……間に合わなかったか」
「み、つきさん。海は、海はどうなって」
「獣化症候群の症状だよ」
白樺さんも言っていた、その病気。それが、今の海の容態なのだろうか。
「海は、治らないの」
「町の研究者が、症状を早めてしまったんだ。助かることはない」
視界が奪われてしまった様な気がした。絶望の二文字が、胸に重くのしかかる。私は、彼の胸倉をつかんだ。
「でも海は! 海はっ!」
自分でも情けない声が出たのはわかっていた。でも、止めようがない。感情が波のようにうねる。
「君には、今二つの選択肢がある」
出来の悪い子供を諭すような声だった。間違いではないけれど。
「あのまま放置するか、死なせてやるか」
「死なせてやるって、そんな」
「ただ僕は薬を持っている。確実に死には至るが、正気には戻る。安らかな死を保障するよ。つまり、化け物のままにしておくか、安楽死させてやるか」
私は海の顔を一瞥した。苦しそうな表情。どうしたら、いいの。
「わ、私は海に生きてほしい。海は、化け物でも海だ。寺井海なんだよ」
「……今殺さなくても、直に国の軍がくる」
なら、選択肢なんてないも同然じゃないか。悔しくてやるせなくて、つい俯いてしまった。
「観月さん、薬をちょうだい。私が、やる」
薬ケースを手渡される。薬はカプセル状のものだった。海の口に無理やり含ませてやる。これをのんだら、海は死ぬ。海を、殺すことになる。声をあげて泣きそうになったし、薬を叩きつけそうにもなった。でも、海が一番つらいんだ。海、海、海。死なないで。海が死んだら、私はどうしたらいいの。生きる意味なんてないよ。
薬を飲むと、さっきまで暴れてた海はすっかり大人しくなった。時々唸るのは相変わらずだけど、苦しくはなさそうだ。
「……お姉ちゃん」
海がけだるそうに顔をあげた。
「海、海。大丈夫?」
「うん、苦しくなんてないよ」
海は優しくほほ笑んだ。その額を撫でる。かなり熱い。黒い痣は、海の顔の半分を覆っている。そのうち、海の全てをのみ込んでしまうのではないだろうか。
「お姉ちゃん、血が出てるよ。どうしたの」
ああ、痛みなんて忘れていた。海はさっきの出来事を忘れているらしい。そっちのほうが好都合だ。つらい思い出は忘れていた方がいいんだ。
「なんでもないよ」
「でも……うん、そっかあ」
声が徐々に小さくなっていく。思考能力も低下しているんだろう。彼は沈痛な面持ちで私達を眺めている。
「お姉ちゃん、あのね」
気のせいか、呂律が上手くまわっていないように感じた。小さいころの海を思い出す。泣いちゃ、いけないんだ。泣いたら海が心配する。
「私ね、世界で一番お姉ちゃんが好きだったんだよ」
「……朝倉さんじゃないの?」
驚きで目を丸くする。でもその後、過去形で言われたことに気づいた。
「最初は、お姉ちゃんに朝倉さんのことが好きって嘘ついてたんだ。お姉ちゃんが大好きだけど、お姉ちゃん離れしなくちゃって必死で。だから、朝倉さんのこと好きなふりしていたの」
「……そっか」
「でもね、ずっと好きなふりしているうちに本当に大好きになって。だから、ごめんね」
「なんで謝るの」
謝らないでよ。笑ってよ。生きてよ。死なないでよ。
たくさん言いたいことがあった。伝えたいことがあった。海は私の頬に手を伸ばす。温かい。人の温かさだ。
「世界で一番は、朝倉さんになっちゃったけど。でも、私のお姉ちゃんはお姉ちゃんだけだから」
私の妹も海だけだよ。そっと海の手に自分の手も重ねる。
「ありがとう」
海の手から力が抜けていく。海はそっと瞼を閉じた。終わりだ、と思った。海はもう目を開けることはない。涙が頬を伝った。私は、海に依存していたんだ。あんなに依存することが嫌いだったのに。
私が守る海は、私より強くて大人だった。