気のせい

 昔からそうだった。こんなことくらいで、と人に笑われることなど、多々あった。言葉が飛び出すよりも、感情をうまく飲み込むよりも先に、涙が溢れてしまうのだ。

 ある程度一緒にいれば、大抵の人は私から離れていく。面倒くさい女だと思われているのだろう。実際、そうだった。別に泣いて同情を誘おうだとか、事を思い通りにしてやろうだなんて考えてはいない。だからこそ、厄介だった。




 沢渡いづるは本当に奇特な人間で、私のそういった悪癖を晒しても、ずっと側にいてくれる。高校生の時、たまたま委員会が一緒で、それでいつの間にか仲良くなったのだ。2つ上の彼はどうにも世話好きらしく、だからだろう、私を見捨てないのは。高校を卒業してからも付き合いがあるのは、いづる先輩くらいのものだった。


「清瀬は世話がやけるな」


 それが、いづる先輩の口癖だった。それなりに賑わう居酒屋、向かいの席にはいつもの変わらないいづる先輩の顔。彼は腹がたつくらいに綺麗な顔をしている。ただその表情は、あまり動くことがない。ポーカーフェイス、と呼べるのだろうか。今だって、彼は何の感慨もなさそうに、運ばれてきたポテトフライやら焼き鳥やらを眺めている。


「私だって、夜中に呼び出して悪いなあ、くらいは思ってます」


 口を尖らせながら、さっそくポテトに手を伸ばす。安さを売りにしたチェーン店だから、特に美味しいわけでもなかった。ただチープな味は、なんとなく慣れ親しんだ感じがして気にいっていた。


「でも、こういう時に呼べるの、いづる先輩くらいしかいないし」


 そう言うと、いづる先輩はほんの少しだけ、目尻を下げる。基本的に、彼は頼られることが好きなのだ。私はこうした彼の性格に甘えてしまっている。


「それで、今回はどうした」

「聞いてくださいよ、最近、ちょっと変なんです」

「……変?」


 私は大きく頷いた。


「ふとした時に視線を感じたりとか、誰かに付けられてるような気がするんです」

「気のせいだろ」


 あまりにもあっさりと言い切られてしまって、私は拍子抜けしてしまった。てっきり、親身になって話を聞いてくれるものだと思っていたから。

私は慌ててかぶりをふる。


「それだけじゃないんです。いつのまにか、物がなくなってることも多くて。この前なんて、鞄に入れたはずの手帳がなくなってたんですから」

「それで、ストーカーの仕業だって言いたいわけか」


 いづる先輩は視線だけ寄越して、そのまま丁寧にサラダを取り分ける。几帳面な人だ。


「そんなわけないだろ」

「だって……」

「清瀬は思い込みの激しいところがあるから。気のせいだ」


 そうまで言われては、引き下がるしかないのだろうか。胸中に何か引っかかるような感覚がした。私は目の前のビールグラスを掴んで、思い切りそれをあおった。そうしたら、痞えも飲みこんでしまえるような気がして。


「ほら、そんなに飲んだら駄目だ。明日は、映画の新作を見に行くんだろ」

「そんなの関係ないですよ」


 そうしてもう一度グラスを傾けようとした、その時。あれ、待って、おかしくないか。


「いづる先輩、何でそのこと、知ってるんですか」


 ぞわりと、うなじの方に気味の悪い何かが這う心地がした。

 そうだ。私はいづる先輩の言う通り、明日の朝に映画を見に行く。上映している館が少なく、知名度のあまりないものだから、誰にも伝えていない筈だ。それこそ、手帳に書いておいたくらい。


 手帳。


 失くした、手帳は何処に行ったのだろう。いつも、鞄の中に入れておいた。人付き合いの少ない私は、出先で荷物を誰かに預ける機会は少ない。それこそ、先輩くらいしか。

 あ、駄目だ。わけわかんない。涙が出そう。喉のあたりがぎゅっと熱くなって、肺が鷲掴みにされたように息苦しい。目の縁に涙がたまり、やがて頰をつたい静かにテーブルへ落ちていった。


「清瀬は、本当に世話がやけるな」


 いづる先輩の唇が、やわらかな弧を描く。そうして彼の手が伸ばされて、壊れ物を扱うように私の涙を拭った。


「ストーカーが怖いのか?  そんなもの、いないよ。だって、俺がこの目で見ているから」


 違和感はあった。やけに断定的ないづる先輩の口調とか、突き放したような感じとか。でも、だって、いづる先輩だよ。優しくて、いつも話を聞いてくれて、それで真面目な。

 一度堰を切ってしまえば、あとは溢れるばかりだ。にじんだ視界の向こうに、珍しくいづる先輩の笑みが見える気がした。