沈んだ過去、雁字搦めの隣人

 私は、海を守りたい。そう、本当に思っているんだろうか。





 街に来たばかりの頃、私は小学生だった。二つ下の海は、訳も分からずに常に怯えていた。そんな子供が、二人だけでアパートで暮らす。朝倉さんは気にかけてくれたけど、よく暮らしていけたと思う。その頃は朝倉さんと同様に、私達を助けてくれる人がいたから、やっていけたのかもしれない。

 ――日下陽菜。

 当時の私達から見れば姉のような存在だった。陽菜さんは二十歳を過ぎていて、面倒見もよかった。明るく、そして優しく、私達は両親の代わりに陽菜さんに甘えていたんだ。
 陽菜さんは、私達の隣の部屋に住んでいた。だから、よく夕ご飯を一緒に食べたりしてた。

「おーい、陸ちゃん!」
「あ、陽菜さん」

 ずっと昔の記憶。夕暮れ時に染まる公園で友達と遊んでいたら、陽菜さんが迎えにきた。陽菜さんは仕事帰りだったんだろう、少しだけ疲れを顔に滲ませている。私は無邪気に笑いながら、陽菜さんに近づいた。陽菜さんは私の視線と合わせるために屈む。

「迎えに来てあげたよ!」
「うん! ありがとう!」

 ぎゅっと私の手を握り、立ちあがる。私は一緒に居た友達に手を振り、別れを告げた。

「今日のご飯は何がいい?」
「ハンバーグ!」
「じゃあ、一緒に作ろうか」
「うん!」

 カラスが一羽、電線に止まっていた。ぼうっと、それを見つめながら私達は帰路に着く。たまに見上げた陽菜さんの横顔は、どこまでも優しかった。握られた手の温かさは、じんわりと心に沁みていく。

「陽菜さん」
「ん、なあに?」
「ずっと一緒に居ようね」

 陽菜さんは私の質問に目を丸くした後、大きく頷いた。

「もちろん!」

 両親が離れ離れになったことは寂しい。けれど、私には陽菜さんが居る。そう思えるくらいに、私達は家族だったのだろう。
 陽菜さんのことはよく知らない。ただ、街に来る前は家庭を持っていたらしく、子供もいたようだ。今思うと、陽菜さんも相当心細かったんだ。私には海が居る。でも、陽菜さんは本当に一人でこの街に来た。そんな私達だから、寂しさを紛らわせるために、お互いを利用してきたんだ。なんて、歪な関係。





 その日の私は急いでいた。学校の係の仕事があって、帰るのがすごくおそくなってしまったのだ。今日に限って、陽菜さんは仕事で明日まで帰れないと言っていた。早く帰らないと。たぶん、家に海は独りぼっちだ。お腹もすいているだろうし。アパートの階段を二段飛ばしに駆けあがっていく。階段がぎいぎいと悲鳴をあげた。

「ただいまっ!」

 勢いよく扉を開けて、玄関に上がる。ランドセルを適当に放り投げて、靴を脱ぎ散らかした。街から支給されたランドセルだから、扱いは結構雑だった。前まで使っていた、親が買ってくれたやつは街に来る前に没収されてしまった。
 話声が聞こえた。今、この家には海しかいないのに。私は不思議に思って、そろりそろりと居間に向かう。そこには海と陽菜さんが座って談笑していた。緊張の糸が緩んで、全身の力が抜けていくのを感じる。二人は私に気づいたようで、笑顔で私を迎え入れた。

「おかえりなさい、お姉ちゃん」
「おかえり」

 あれ、と私は首を傾げた。

「陽菜さん、今日は仕事じゃないの?」

 私は尋ねた。確か、陽菜さんは今朝、明日まで帰ってこないと言っていたはずだ。その上、今は大切な時期らしく、抜け出せそうにないと。
 ほんの瞬き程度の間、陽菜さんに睨みつけられたような気がした。背筋に寒気が走る。私は反射的に陽菜さんと間をとった。海は全く陽菜さんの変化に気づいてないらしい。もう一度陽菜さんを見やると、いつもの柔らかい表情だった。

「仕事なんかより、海ちゃんや陸ちゃんと一緒にいることのほうが大事だよ」
「そ、う」

 喉から上手く声が出てくれない。そんな私を、幸いなことに陽菜さんは怪しまなかった。
 睨んだ。陽菜さんが、私を。その事実ばかりがぐるぐると頭の中を巡っていく。固まったまま動けない私に、陽菜さんは話しかけた。

「あ、そうだ。さっき海ちゃんとも話してたんだけどね」

 今日の夕飯の献立を言っているみたいな、自然な切り出し方。私は相槌を打とうとしたけれど、言葉にもならない呻きが口から出ただけだった。陽菜さんはそれを無視して、さらに続ける。両手をぱんと合わせ、どこか恍惚としていた。

「いっそのこと、私も二人と一緒に住もうかって」
「……え?」
「ね、良い提案でしょ?」
「で、でもそれには街の手続きとか必要なんじゃ」

 陽菜さんは、心底意味が分からないとでも言いたげに、素っ頓狂な声を出した。

「へ? 家族が一緒に住むのって当たり前のことでしょ、何で許可なんているの」

 私達と陽菜さんは、本当の家族じゃないんだよ。そんな言葉が出そうになるのをのみこんだ。一緒に住むのなんて、当たり前なんかじゃない。当たり前だったら、私達は街になんて来なかった。
 結局、陽菜さんと住むことになった。もちろん、街には内緒だ。
 一緒に住み始めてから、陽菜さんは変わっていった。前に見せた冷たい表情を見せる機会が増えた。何か気にいらないと、舌打ちした。そのくせ、私や海が少しでも帰るのが遅くなると、泣きじゃくって抱きしめた。心配したんだよ、どこにいってたの、何をしていたの、みたいな。そんな調子だったから、最初は陽菜さんが怖かった。でも、慣れてきたのか、一ヶ月もたてばそれが呆れにかわっていく。はいはい、また癇癪おこしてるよ。本当に冷めた気持ちで、陽菜さんが怒ったり泣いたりしているのを見ていたんだ。

 本当に怖かったのは、海だ。私の可愛い、可愛い妹。海は陽菜さんがあんなのになっても、甘え続けたし、絶対的な信頼を寄せていた。理不尽なことで叩かれたら、私が悪いのと自分を責め続けるのだ。
 一度、海に聞いてみたことがあった。陽菜さんのこと、好きなのって。海は屈託のない晴れやかな笑顔で答えた。

「うん、大好き。だって、家族だもん」

 その時の叩かれて赤くなった頬が妙に印象的だった。壊れてる、と思う。でも、それが私には当り前だったんだ。そんな生活が三ヶ月も続けば、周囲の人、特に朝倉さんは私達を心配してくれた。海は何でもないよ、と答える一方で、私はただ隣で黙ってうつむくことしかできなかったんだ。




 限界が近づいていた。陽菜さんの精神とか、街に隠しとおし続けることとか。

「海、陸」

 名前を呼ばれた。もう、学校にいかなくちゃ遅刻しちゃうっていうのに。めんどくさい。振り向くと、うつろな瞳で棒立ちしている陽菜さんの姿があった。もう陽菜さんが仕事に行かなくなって久しい。いや、仕事どころか外に出ることさえ稀になった。

「どこ行くの」
「どこって、学校」

 ぶっきらぼうに答えた。すると、頭を殴られた。叩かれるのは、何度も経験してきたけれど。殴られたのは、初めてのことだった。視界が揺らぐ。

「私を一人にする気」
「ちがっ……」

 陽菜さんが腕を振り上げる。もう一度殴られる、何の感慨もなくそう思った。
 その時、海が庇うように私の前に飛び出した。


 あ。


 きっとさっきよりも強い力だったんだろう。殴られた海は衝撃のまま床に伏した。

「海!!」

 私は叫んでいた。死んだかもしれない。頭が真っ白になる。陽菜さんは舌打ちをすると、海を蹴った。何度も、何度も何度も。陽菜さんは無表情だった。

「あ、ああ……」

 動くことができない。誰か、助けて。

「私をっ! 置いていこうとするからっ!」

 陽菜さんは怒鳴り始めた。

「私は悪くない! 二人が悪いんだ!」

 ひどい言いがかりだ。馬鹿だなあ、この人。
 急に、意識がさえ始めた。それで、気づいた時には陽菜さんに飛びかかっていて、喉元を。喉元に爪をつき立てて。殺してやろうって、思って。まるで、私が私じゃないみたいだ。

「陸! 海!」

 扉が勢いよく開いて、外から朝倉さんが駆けこんできた。これで助かるのかな。朝倉さんは私を陽菜さんから引きはがして、海を助け起こす。陽菜さんはひどい形相で私のことを指差しながら、わめきたてていた。この人殺し、とか。裏切り者、とか。何故か睡魔が襲ってきた。朝倉さんに抱えられた状態になった私は、抗うことなく瞼を閉じた。
 海は、大丈夫だろうか。私が、絶対に絶対に守らなくちゃ。




 ――それから、陽菜さんの行方は知らない。朝倉さんに聞いても、はぐらされるばかりだった。海の怪我は大したことじゃなかったみたいだが、打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれない。
 陽菜さんのことは今でも許していない。けれど、仕方がなかったんじゃないかと思う。だって、家族と引き離されて、縋るものが何もなくて。それで、私達姉妹に依存してしまったんだ。
 私は、依存なんてしない。海にも、していない、はずだ。