真夜中の街、輪郭の消えた関係

 ――人生の終着点を決められるなら、私は彼の腕の中がいい。そして、静かに目を閉じて死ぬんだ。







「お姉ちゃん、起きて。陸お姉ちゃん」
「ん……」

 控えめに揺り起こされて目を覚ましたら、目の前には海の顔があった。姉妹なのに、にても似つかない可愛らしい顔。私はのっそりと起きあがって、一つ欠伸をした。まだ、眠い。夏休みは人をかくも怠惰なものに変えてしまう。全く、恐ろしい魔物だ。

「おはよう。お休みだからってずーっと寝るのはよくないよ」
「……うん。おはよ」

 海は既に朝自宅を終えているようで、長い髪は緩く二つに結われていた。白いブラウスに花柄のスカートと、可愛らしい服装だ。薄く化粧が彼女の顔に施されている。

「ああ、そういえば今日は朝倉さんとデートなんだっけ」

 私の言葉に、海は顔をほんのりと紅潮させた。

「デートとかそんなんじゃないよ! ただ買い物に付き合ってもらうだけ……ってそろそろ時間だ!」

 海は慌ただしく玄関の方へ駆け寄った。こんな時間ぎりぎりだっていうのに、怠惰な姉を起こすなんて、なんてよくできた妹か。そう感心していると、海は思い出したように振り返った。

「ごめんね、今日はお昼ごはんつくってないの」
「ん、わかった。いってらっしゃい」
「うん! いってきます!」

 そうして海は、朝倉さんの元へ向かってしまった。朝倉さんならきっと海を大切にしてくれる。乱暴に、なんてしないだろう。

「……お腹すいた」

 ぐうう、と部屋に私のお腹の音が鳴った。既に11時、お昼ご飯といってもあまり差し支えなさそうな時刻。生憎、海みたいに予定があるわけでもない。のそのそと布団から這出て、台所へ向かう。パンとか何かないかな、何でも良いからお腹に詰め込みたい。
 そうしてごそごそと冷蔵庫や戸棚を荒らした結果、トースト1枚で終わった。ハムなんてないし、マーガリンなどとうに切らしている。我が家の台所事情は全て海任せだ。トーストをそのまま口に押し入れて、牛乳で流し込む。咀嚼しながら、パジャマから適当にみつくろった私服に早着替えし、歯を磨く。最後に荒く髪の毛を梳けば完璧、これで私の朝の支度は終了だ。

「さて、と」

 一息ついて、私も玄関へむかう。一応、だけど私にだって用の一つや二つはある。そこまで暇人というわけではない。海に比べれば、1日の密度はすかすかだけど。

「いってきまーす」

 誰にいうわけでもない。でも、なんとなく言ってみたかった。返事は返ってくるわけもなく、私は履きなれた靴に足を通して、玄関の扉を開ける。たちまち外の熱気が押し寄せて、私は思わず顔をしかめた。今年の夏は、嫌に暑い。
 アパートの階段を一気に駆けおりる。その拍子で真白のワンピースがゆれた。裾と襟ぐりに、花や蔦の刺繍が織り込まれているものだ。日差しは顔にうっすらと汗をかく程度にきつく、ポケットに忍ばせておいたハンカチを取り出す。
 遥か遠くに、壁が見える。ぐるりとこの街を取り囲んでいる、鉛色の壁だ。鳥が二羽、連れだって壁の向こう側へと消えて行くのをなんとなく眺めて、最後の一段を降りた。



 我が母校である小学校は、私達の住むアパートにほど近い。歩いて十分もすれば、見えてくる。フェンス越しに見る小学校の校庭に人気は無い。私は堂々と校門から入り、校庭の真ん中を横断した。校舎の傍に設置された花壇には、いつもと同じように校長先生が立っていた。麦わら帽子を被り、首に土で汚れたタオルをかけている。校長先生は私に気づくと、顔をくしゃりと緩めて会釈をした。私も頭を下げる。

「やあ、寺井さん」
「今日もお邪魔します」
「ああ、そうだ。寺井さんが来ると思って、ほら」

 差し出されたのは、冷たいサイダーだった。

「校長室で冷やしてたんだ。教室はむし暑いでしょう?」
「わ、ありがとうございます」

 お礼を言うと、校長先生は更にしわを深くした。

「いいの、いいの。寺井さんもがんばってね」
「はい」

 校長先生がいつから校長先生だったのか、わからない。少なくとも私が小学校に入学した時も校長先生だった。そして、それは卒業してからも変わらず。
 私は再度頭を下げて、校舎へ入った。後ろで、水の跳ねる音がする。きっと校長先生は、花壇に水をやっているのだ。

 校舎の中は昼間だというのにどことなく薄暗い。廊下にぺたり、ぺたりとスリッパの間抜けな音が響き渡る。職員室の前は数人の話声と、扇風機の音が聞こえてきた。階段をのぼる。汗が首を伝った。あと、一階分のぼれば目的地につく。あと、少し。

「ふう」

 一息ついた。四階分一気にのぼるのは少し骨が折れる。それでも目の前の「図工室」と書かれたプレートを見て、心が僅かに高鳴る。足早に図工室まで近寄り、扉を勢い良く開けた。昨日訪れたままの状態で、教室の机は乱雑に並べられている。私はトートバッグからスケッチブックを取り出すと、そこらの机に広げた。
 なんとなく、図工室という雰囲気が好きだった。長年染み付いた絵具の匂い、彫刻刀で彫られてぼろぼろになった机。ここは絵を描くことに集中できる。

 スケッチブックの新しいページをめくる。何をかこう、そう思った時から手には鉛筆が握られていた。
 鉛筆がスケッチブックを滑るようにして移動する。教室に、鉛筆と紙の擦りあう音だけが響いた。
 特に、絵が好きなわけでもなかった。そして得意なわけでもない。ただ、熱中するものが欲しかっただけだ。全てを忘れてしまえる物があればそれでよかった。校長先生から勧められて、それで私は休日になればここに通っている。鉛筆とスケッチブック以外の道具は、図工室のものを借りてもいいと言われた。どうせ廃校が近いのだ、と校長先生が寂しげに言っていた。
 紙の上には徐々にこの街の姿が現れていく。鉛色の壁に囲まれた建てもの、その頭上には大きな月。なんとなく、だけどこの街には夜が似合うと思った。息がつまるような街だ、とも感じる。

「あはは、やっぱり陸さんの絵、とても上手だ」

 鮮やかな笑い声が上から降ってきた。私はゆっくり顔をあげる。そこには人懐っこい笑顔があった。

「こんにちは、陸さん」
「……こんにちは、観月さん」

 決まりきった、少しだけよそよそしいくらいの挨拶を交わす。彼の、決して派手ではないけど綺麗な整った顔。瑠璃色の透き通った瞳はどこか人間離れしていた。どこをどう切り取っても、つくりものめいているのだ。

「最近毎日ここに来るね。学校があるんじゃないの?」
「夏休みだから」
「ふうん」

 そうして気まぐれに、彼は視線を窓に移した。その様は、しなかやな猫に似ていた。
 観月。名前を口の中でもう一度呟く。彼との出会いは夜の校舎だった。それ以来、彼とは大抵此処で会う。数年来の付き合い、といえば聞こえはいいが、実は名前以外はよく知らない。たわいもない話しかしないのだ。けれども、それでちょうどいいと思った。馬鹿みたいだけど、踏み込んではいけない気がして。

「陸さん、これ何?」

 不意に彼が机の上に置かれたサイダーを指差した。私は一旦手を止めて、彼の顔を見る。心底不思議そうに彼は首を傾げていた。
 彼は知らないものが多い。それは常識だったり、サイダーであったり。

「サイダー。飲み物だよ」
「……へえ」

 サイダーを持ちあげてまじまじと見つめる姿に、私はつい苦笑してしまった。

「飲んでいいよ」
「本当に?」
「うん、どうぞ」

 彼は数秒間サイダーと睨めっこした後、プルタブを開けて恐る恐る飲んだ。そして端正な顔を歪めてみせる。

「すごく、シュワシュワする」
「だって炭酸だもん」
「よくこんなもの飲めるね」
「おいしいのに」
「うへえ」

 大げさに肩を竦め、彼は溜息をついた。
 窓から差し込む太陽の光にあてられて、彼の髪が僅かに緑色に変化する。色素の薄い黒に混じった、透き通る緑の髪は美しく、つい目を細める。彼は私の視線に気づいたようで、訝しげるふうにして眉間にしわをよせた。

「何?」
「ううん、なんでもない」

 私は慌てて首を振った。髪に見惚れていたと言えるはずもない。髪どころか、顔も、性格も、動作も全てがこの街では異質に思えて、目を離せなかった。恋愛感情ではない、純粋な憧憬だった。彼は、この街に囚われていない。彼になれたら、きっとあの鉛色の壁の向こうまでゆけるのだ。そう、錯覚してしまえる。


 この街の朝は、まだこない。