空虚な朝、感情の矛先

 変わっていくことが怖かった。皆、私の知らない人のような気がしてきて、それでも彼は変わらないことに安心したかった。いつのまにか、彼の存在は私の中で大きくなっていたようだ。





 翌日。私は何も考えたくなくて、無意識にトートバッグを掴んで家を出ていた。海におはようすら言わずに、朝食を食べずに、薬を飲まずに。空気がひんやりとしている。私はただひたすら走った。何も食べていないというのに、胃から何かがこみ上げて来そうになる。体力のあまりのなさに愕然とした。息が乱れる。疲れた、と思った。

 小学校の校門は開いていた。校長先生の姿は無い。さすがに、早すぎたのだろう。だって、今は8時だ。既に職員室には人がいた。なので、職員玄関から校舎に入り、私は図工室を目指した。職員室からは相変わらず扇風機の音が聞こえてくる。心なしか、話声は以前より少なくなっている気がした。時間のせいだろうと思うけれど。

 四階の図工室。こんなところまできて、私は何がしたいんだろう。ふと、冷水を頭から被せられたような気になった。けれど、来てしまったものは仕方がないのだ。私はどうせ誰もいないだろう、と自分に言い聞かせてみてから、扉を開けた。そして、直後、息をのんだ。

「おはよう」

 涼やかな声だった。朝日を背に、彼は立っていた。その姿は神聖な、触れてはいけないようなものに見えた。指先から、力が抜けていくのを感じる。何故か、泣きそうになった。

「……おはよう」

 何度も繰り返したこのやりとり。彼の唇がゆるやかに弧を描く。まぶしくて、つい目を細めた。

「昨日は来なかったね」
「ごめん」

 謝ることなんて私にはなかったのに、反射的に口からついてでた。彼は大げさな身振りで肩をすくめて見せる。

「責めてるわけじゃない」

 彼の視線に射抜かれた。

「知ってる」
「じゃあ、なんで謝ったのさ」
「……なんとなく、かな」
「そっか」

 それ以上彼は追求しようとしなかった。私はぎこちない動作で彼に近づく。窓からやってきた風にふかれ、彼の髪の毛がゆれた。黒の中に混じる緑が輝く。変わらない、と思った。

「どうして居たの」

 言ってから、言葉がたりなかったと漠然と思った。でも、彼は意味を汲み取ってくれた。

 ――何で、こんな時間にここにいるの。私は来なかったかも知れないのに。

「来ると、思ったんだ。いいや、来てほしかった」

 私の心臓が大きく疼いたのは、きっと気のせいなのだろう。彼は困ったように眉尻を下げて笑った。自分でも、そんな言葉が出たことに驚いているようだ。私は肩に下げていたトートバッグを机の横にかける。彼の視線は、トートバッグの中にあるスケッチブックに移った。伏し目がちになると、彼のまつ毛の長さがことさら強調される。

「次は何の絵を描くの」
「まだ、決めてないかな。でも、次も風景画だと思うよ」
「そういえばさ」

 私は椅子に座り、スケッチブックを広げる。彼は壁に背を預け、暇そうに欠伸をした。

「陸さんは何で絵を描いてるの」

 私の動きがぴたりと止まる。そういえば、彼には言っていなかった。言いたくないわけではなかった。ただ、機会がなかっただけで。

「何もしてないと、嫌なこととか思い出したから。それを紛らわせるために描いてたら、いつのまにか習慣になってたんだ。今はもう平気だけど」

 嫌な記憶。それは私の中でいまだに色褪せることは無いけれど、忘れたふりをすることはできるようになった。ずっと前、私がこの街に来て日が立たない頃。まだ、あの人がいた時。瞼を閉じれば、あの人の姿ははっきりと思いだせる。
 彼は顔を曇らせて、私の顔を覗き込んだ。

「……もしかして、聞かれちゃ嫌なことだった?」
「ううん、そんなことはないよ。もうずっと昔のことだから」
「ならいいけど」

 彼は気まずげに視線を漂わせた。その視線が、私の頭に固定される。

「それ、何」
「え、この髪留めのこと?」

 朝倉さんにもらった髪留めだ。一週間身につければ願いがかなう。私はそれを信じているわけじゃないけれど、海がつけろとうるさいのだ。

「知り合いにもらったんだ」
「もしかして、朝倉に?」

 その名前を聞いた瞬間、私は弾いたように立ちあがった。彼はそんな私を見て、たじろぐふうでもなく、ただその瑠璃色の瞳を数度瞬かせただけだった。朝倉さん。私の周囲の人は、朝倉さんその人に集束している。私は頷いた。

「やっぱり、もらったんだ」

 彼の手が、私の頭に伸びる。その腕は血が通っているのかどうかさえ、怪しいほど白い。決して弱くはない力で、私の髪が引っ張られた。

「痛っ」

 つい、声を漏らしてしまう。彼はすぐに手を離した。手には確かに髪留めが握られている。彼は急にはっとして、目を見開いた。私は状況をすぐに把握できなくて、ただ髪留めと彼の顔を交互に見ていた。

「……ごめん、こういうことするつもりじゃなかったんだ」

 彼は私に髪留めを差し出した。すぐにはそれを受け取ることができなかった。

「言い訳に聞こえるかもしれないけれど、無意識だった」

 彼の面差は、泣きそうに見えた。私は初めて、ああ彼も人間なのかもしれないと感じた。彼が幼いころの海と重なって、知らずのうちに私は彼の頭を撫でていた。今度こそ彼は驚いたように口をぽかんと開けていたが、やがて私の行動を受け入れて、静かに目を瞑る。

「許してあげるよ」
「……ありがとう」

 私達の関係が少しずつ壊れていく。

 校舎を出ると、花壇の傍に校長先生の姿があった。児童手作りの木製ベンチにゆったりと腰かけ、校庭を眺めている。私は校長先生に近寄り、声をかけた。

「こんにちは、校長先生」
「ああ、寺井さん」

 校長先生はゆっくりと私の方を振り向いた。額に汗をはりつけ、柔らかい笑顔を向けた。朝の涼しさが嘘のようで、きつい陽光が地面を照り返している。

「今日も絵を描きに来ていたんだね」
「ええ」
「寺井さんがここに通うようになって、随分たつなあ」

 間の抜けるような声で校長先生が言った。そういえばそうだ。もう何年も前になる。その時から、校長先生にお世話になってばかりだ。私は「そうですね」と相槌を返す。

「あの時は驚いたよ。だって、校舎で眠ってたんだから」
「本当に迷惑かけました……」
「いいのいいの」

 声をあげて朗らかに校長先生が笑う。

「いやあ、時間がたつのもはやいね」

 しみじみと校長先生が呟いた。校長先生は初めて会ったときから、何も変わらない。そこがどこか嬉しい。校庭には、数人かの子供がサッカーをして遊んでいた。なんとなく、それを眺める。蝉の音と子供たちの笑い声が混じり合った。
 校長先生が咳払いをする。その顔に、陰りが走った。

「実はね、廃校が決まったんだ」

 廃校。心の中で、自分でも意外なほどにその事実を認めることができた。

「前々から、児童の数が少なくて街から言われてたんだ。でも、正式に廃校が昨日決まってね」
「そしたら、あの子達はどうなるんですか」

  私はサッカーに励む子供たちを目で追った。

「自宅学習用のプログラムは組んである、っていうのが街の言い分なんだ」
「でも、それでも」

  事実を認めることはできた。けれども、納得できるかどうかは、また別の問題だ。私は反論しようとして、言葉を必死に探す。駄目だ、何も出てこない。口がもつれて、うまく動かなかった。

「夏休みいっぱいまで校舎は解放してるから」

 校長先生の声がやけにはっきりと聞こえる。あの子たちは、廃校されることを知っているのだろうか。廃校になって、子供たちは何を思うのだろう。無邪気なあの子たちが、若干羨ましく感じた。

「もうそろそろ、夏休みも半分すぎるねえ」

 夏休みが終わる。今年の夏は時間がたつのがやけにはやいような気がした。いろんな私の感情が、静かに溶けていく。