緩やかな終わり、その始まり

 喪失感と疑惑がないまぜになって、私の思考を浸食する。






 アパートに着いたのは、結局7時を超えていて、あと少しで外出禁止時間という頃だった。

「ただいま」

 力なく玄関を開けると同時に、勢いよく海が抱きついてきた。ふらつきそうになるのを、二の足でふんばる。海は私の胸に顔をうずめたまま、声を絞った。

「……おかえりなさい」

どうしたのと問いかける前に、海が抱きついてきた理由がわかった。私は、海を心配させてしまったのだ。その事に気づいて、胸の奥が締め付けられる。そっと海の頭を2、3度撫でた。

「ごめんね」

 ぎゅっと、抱きしめられる力が強くなった。

「こんな時間まで、何の連絡もなくて、すごく心配したの」
「うん、本当にごめんね」

 海は、一人で私の帰りを待っていたのだ。不審者に怯えながら。海は弱い存在だから、私が守らなくちゃいけないのに。
 海はそろそろと顔をあげた。瞳が潤んでいる。

「いいよ、許してあげる」

 ふっと力が抜けたように、海は表情を緩める。その顔は、悪戯をした子供に似ていた。

「ご飯にしよっか。お姉ちゃんの好きなつくね、作ったんだよ」

 そう言って、海は私を居間へいくように急かす。私は海に促されるままに、食卓へついた。テーブルの上には既に料理が並んでいる。私達二人だけでは、大きすぎる食卓だ。私は海の向かい側に座ると、手を合わせた。

「いただきます」
「召し上がれ」

 小鉢に取り分けられていたのは、つくねのおろし煮だった。海は私と違って面倒くさがり屋じゃないから、料理は凝ったものを作ってくれる。妹に感謝しながら、私は箸を進めた。けれど頭の中は常に、白樺さんとの会話が占領していて、味などわかるはずもなかった。白樺さんの忠告を聞き入れて、海にも言うべきか。でも会ったばかりの白樺さんより、朝倉さんを信頼したかった。朝倉さんを、疑いたくはない。
 きっと箸が止まっていたのだろう。海はもの問いたげに、小首をかしげていた。

「お姉ちゃん。もしかして、おいしくなかった?」
「ううん、そんなことないよ。海の料理はすごくおいしい」
「えへへ、ありがとう」

 いつもなら、その言葉も心の底から言えたはずだった。はにかむ海を見て、微笑ましいなあなんて気楽に思えたはずだ。それなのに、私は喫茶店でのことばかり考えている。
こんな時、彼ならなんて私に声をかけてくれるのだろう。初めて、彼を恋しく思った。

 夕飯の間は終始こんな調子だった。たぶん、海も何かあったんだと察したんだと思う。それでも、海は何も聞いてこなかった。

「お姉ちゃん、先にお風呂入っていいよ。疲れてるでしょ?」

 食器を台所へ持っていく間際、海が言った。今日は素直に、その言葉に甘えようと思った。
 脱衣所で服を脱いでいると、鏡の中の自分と目があった。私は自分のことが、どちらかというと好きではない。優柔不断だし、頭だっていい方ではない。人に誇れる取り柄などなかった。何より一番嫌いなのは、二の腕の辺りに刻まれた、№4752の文字だった。どんなに丁寧に石鹸で洗ったって、消えることはない。一度、その文字を撫でてみる。口の中が、苦いものであふれる。
 №4752。それは私が私であることの証明でもあり、この街の住民である証拠でもあった。






「海、お風呂出たよ」
「あ、うん。わかった」

 お風呂を出て、居間へ行くと海はソファに座りながら、指をじっと見つめていた。後ろからそれを覗きこむ。

「何見てるの?」
「わ、えっとこれは……」

 それは指輪だった。薄桃色の、花をモチーフとした可愛らしいものだ。きらきらと仄かな光を放っている。海は指輪をすごくまぶしいものを見ているように、目を細めた。愛おしそうに指輪を触る。

「このまえ、買い物に付き合ってもらったでしょ? ……その時に、もらったの」
「朝倉さんに?」
「うん!」

 上機嫌に海は頷く。続いて「あ、そうだ」と声をあげた。ソファから立ち上がり、バッグをがさごそと漁る。中から、手の平サイズの紙袋が出てきた。それを私に渡す。

「お姉ちゃんにも、朝倉さんから。熱とかでてばたばたしちゃって、忘れてたけど……」

 私に。一瞬言われたことがわからんくて、反応が遅れてしまう。私は紙袋の中身を確かめた。

「わあ、髪留めだ!」

 私より早く、海が歓声をあげた。きっと海と同じデザインなのだろう、水色の髪留めだ。すごく可愛くて、私も心の中で喜んだ。海は私の手からひょいと髪留めを引っこ抜くと、それを私の髪に素早く留めた。

「似合ってる! 可愛い!」
「そんなことないよ。海の方が、こういうのは似合う」
「ううん、お姉ちゃんは自分を過小評価しすぎてる」

 ぷう、と海が頬を膨らました。私はその様子に思わず心が緩む。

「この髪留めとね、指輪。同じブランドなんだって」
「へえ」
「それでね、一週間ずっとつけてたら願いが叶うって噂があるんだって! 朝倉さんがいってたの!」

 そんなロマンチックな噂と朝倉さんがあまりにも不似合いで、思わず吹き出してしまった。海は何がおかしいのかわかっていないようだ。

「え、どうしたの」
「何でもないよ、ほらお風呂入ってきちゃいな」
「わかった!」

 元気よく居間を飛び出す海を見送って、私はソファに深く座った。朝倉さんを、信じてみよう。そう強く決心した。

 その瞬間、鈍い音が壁を通して聞こえた。この方向は、中田さんの部屋だ。頭を打ち付けているような音。次にたくさんの足音が鳴る。私は、自然と息を潜めていた。

 翌日、私はよく眠れないままに布団から這い出た。あの音の正体は掴めないままだ。中田さん、大丈夫かな。朝の支度を終えると、私は玄関を飛び出した。

「……あ」

 思わず、声が出た。扉が開け放たれたままの、隣の部屋。中田さんの部屋だ。恐る恐る近寄る。

「……ごめんください、誰かいますか」

 部屋の中は丸見えだった。生活感がない。この部屋だけ、時間が止まっているみたいだ。中田さんは、旦那さんと娘の三人家族のはずだ。私が街に入ってきて数年後、家族三人でやってきた。
 やがて、のそりと奥の方から猫背気味の男の人がやってきた。中田さんの旦那さんだった。目に隈ができている。生気がなかった。

「君は、陸ちゃん」

 か細い声だ。今にも死んでしまいそうな。旦那さんの目つきは鋭かった。黒眼だけがぎらぎらと光を帯びている。こんな人だっただろうか。私の知っている中田さんの旦那さんは、もっと爽やかで普通のサラリーマン風の人だ。こんな人じゃ、ない。

「あの、中田さんはいますか」
「中田さん……ああ、菫ね。菫は、消えちゃったよ」
「え?」

 旦那さんの言葉を反芻する。理解できない。

「消えた、って」
「うん、消えた」
「ど、どういうことですか! 消えたって、いったいどこで、何で」
「わからない、わからないよ。でも、帰ってきたら、薫は、変わっちゃった。全部、変わっちゃったんだ。俺を、殺そうと爪を立てて、それで」

 そこでぶつり、と事切れたように旦那さんは動かなくなった。そしてそのまま無言で部屋の中へと、戻っていく。その光景は異様で、不気味だった。扉はまだ開けっぱなしで、私は呆然と立ち尽くすことしかできない。

 我にかえることができたのは、海が呼びに来てくれたからだった。

「お姉ちゃん、外に出てどうしたの」
「……海。何でもない、戻ろう」

 海の背中を押す。あれを海に見せたくはなかった。

「あ、お姉ちゃん。お薬飲むの忘れてるでしょ」

 そういえば、中田さんのことばかりですっかり忘れていた。私達は、毎日街から配布される薬の服用義務がある。最近になって、また薬が変わったのだ。

「……ちゃんと飲むよ」

 本当は、飲みたくなかった。街に支配されてるみたいな気がして。でも、習慣を破れるほどの度胸は私にはない。度胸のなさ。これも、自分のことが嫌いな原因なのかもしれない。

 部屋へ入る前、一度だけ後ろを振り向いた。中田さんの消失。見たくないものには、蓋をしてしまえれば、楽なのに。