花と毒

「あと一月経てば、豊穣の餐があるの」

 あらゆるものがまばゆく照らされる夏が終わると、豊満な実りをたたえる秋が訪れる。エトはネリーの部屋の壁にもたれかかり、嬉しそうに話す友人の横顔を眺めていた。彼女は衣装箪笥と銀細工で飾られた姿見の前を、幾度となく往復している。手にはこっくりとした色合いの、真珠色のワンピースを携えていた。

「この日ばかりは、ご馳走が出て、とっておきの服に身を包むの。少しお化粧なんかしたりして、一日中豊穣を祈って、歌や楽器を奏でる。とても楽しいのよ」
「へえ、いいなあ。気分が明るくなりそう」

 エトは率直な感想を述べた。祭事など、塔に来てから初めてのことだ。否応無しに、興趣がわく。
 ネリーの関心ごとは、服に合う髪飾りに移ったようだ。机に並んだバレッタやリボンを見比べては、首をひねる。

「ああ、でも残念だけど、私は衣装持ちじゃないから、上等な服なんて持ってないよ。ああ、その紫の髪飾り、とても似合うね」

 ちょうどネリーが頭に当てていた、ラベンダーのリボンを褒め上げる。彼女の亜麻色の髪に、よく映えていた。ネリーはほほを染め上げ、淡くはにかんでみせた。

「ふふ、ありがとう。きっとエトは、ちょっとだけ古典的な、けれどすらりとした、ラウンジスーツが似合うんでしょうね」
「私はとことん、服に疎いから」
「わたくしは、そういうの持ってないし……。でも、リボンなんか変えたら、気分が変わるかも。ほら、この真紅の飾りとか」

 ネリーは化粧台の前に座るように、エトを促す。そうしてエトのやわく波打つ金髪をほどき、丁寧に櫛ですく。ネリーは鏡ごしに、髪を下ろしたエトを認め、感嘆の声をあげた。常は男装の麗人のように振る舞う彼女だけれど、こうしてリボンを解いて見せれば、まろやかな可愛らしさを纏う娘へ転じる。

「エトが髪を下ろすの、初めて見た気がするわ。括っているとキリッとしているけれど、下ろしていると……」
「恥ずかしいな。あまり、似合ってないだろう。母にもよく言われていたよ」

 ネリーは思い切りかぶりを振る。

「そんなことない。その、印象が変わるの。まるで綺麗な女の子みたい、ううん、変な意味じゃないのよ。元々、エトは女の子だし」 
「はは、お褒めに預かり光栄だよ」

 そうだと両手を合わせ、ネリーは衣装箪笥から、繊細な白藍色のワンピースを持ち出した。裾のあたりにかけて控えめなレースが広がり、胸元には蝶々飾りがとまっている。

「もしかしたら、この服なんて、エトに似合うかもしれないわ」
「なんだか、気恥ずかしいな」

 ワンピースをエトに差し出せば、彼女は戸惑った手つきでそれを迎えた。

「少し、姿見の前で合わせてみて」

 エトはぎこちない動作で立ち上がり、姿見の前に立つ。眼前に映る、ワンピースを着た少女。エトは形容しがたい、不思議な気持ちで、鏡を見つめていた。これまで、母が望むままに、少年の格好をしてきた。しかし、母の姿はない。この金髪の娘は、誰だというのだろう。

「ああ、やはり見慣れないね」
「ううん、本当によく似合っているわ。でも、嫌ならいいの。いつもの服装の方が、エトらしくて好きよ」

 エトらしい、という台詞を反芻する。彼女は視線を無理やり鏡から逸らし、ネリーの方を振り向いた。

「それにしても、本当に楽しみだね」
「そうね。でも、少し不安なの」
「不安?」

 ネリーは頷く。

「豊穣の餐の前には、不吉なことが起きるってジンクスがあるのよ」
「ただの迷信だろう」
「ならいいけれど……」

 この塔にまつわる、数々の迷信の一つに過ぎないのだろう。退屈を持て余した子どもたちは、どんなものでも曰く付きに変えてしまう。幽霊列車が、いい例だろう。それでも、ネリーの不安の種は取り除かれないらしい。彼女の声はどこかうかない。

「エト、貴女は少し、危なっかしいところがあるから気をつけてね。ほら、初夏の頃、幽霊列車を確かめに、塔を抜け出したでしょう。もう忘れたつもりなの」
「はは、ごめんってば」

 けして、あの晩の出来事を忘れたわけではなかった。今でも、鮮やかにエトは思い出してみせることができる。けれどもあれきり、シエルはおかしな挙動をしてこない。あれは何かのまやかしだったのか、とエトは感じていた。


***

 絡みつくような、粘り気のある甘い香りに、ロランは辟易していた。古びた紙の匂いと綯交ぜになり、むかつきを催してしまう。せっかくの早朝の清浄な空気が台無しだと言わんばかりに、ロランは鼻をつまんでみせた。

「原因は、痴情の縺れってやつだって」
「色欲に溺れたか」

 シエルは書庫の張り出し窓に、いつものようにもたれ掛け、乾いた羊皮紙のページをめくった。一度として痞えることなく、なめらかに掠れた文字を追いかける。
 ロランはあたりに林立した書棚の背表紙を順々に眺めては、暇を持て余しているようだった。

「それにしても、僕はこの匂い、嫌いだなあ。彼女、なんて花だっけ」
「二ネットの花は薔薇だろ」
「道理で。甘ったるいや」

 シエルは同窓の姿を懐う。二ネットは気丈で、明るい娘だった。ほっそりとした手足は長く、塔を訪う前は、劇団に入り生計を立てていたという。深く言葉を交わした覚えはない。ただ、人好きのする娘だったという印象だけが、シエルの心中に刻まれていた。

「ああ、それにしても、よりによって二ネットが亡くなるなんて。神さまの特別だったのに」

 天に嘆くロランを、横目で盗み見る。彼は二ネットの死を悼んでいるのではない。ただひたすらに、哀れんでいるのだ。塔では、いつもこうだ。薄い膜を隔てて、死が隣り合わせに佇んであるというのに、誰も嘆くことはしない。
 ふと外を見遣れば、折良く棺桶が対の塔へ運ばれてゆく。喪服に身を包んだ大人たちが列を連ねて、そのあとを追った。

「となると、彼女の代わりに、また誰かが選ばれるのかな。なあ、シエルは誰だと思う」
「……エト」

 エニシダの娘の名を零せば、ロランがにやりと口角を上げる。

「随分あの子を気に入ってるね」
「あいつのピアノの音が好きなんだ。なんていうか、不安定で歪だけど、それが絶妙なところで保っている感じ。綺麗だろ」
「よくわかんないな。髪の長いところは好きだけど、あれじゃあ少年のようだ」

 シエラ自身、何故こうも彼女のピアノに魅かれるのか、上手く説明がつかずにいた。彼女が紡ぐ音に、純粋なうつくしさを見出したのだ。ただ、それだけに過ぎない。

「今夜、また塔を発つのか」
「ああ、楽しみだ」

 ロランが誇らしげに胸をそらす。シエルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「君が、何故この大役を嫌っているのかわからないよ」
「これこそが天命なんて、馬鹿げてる」
「この話題になると、僕らは気が合わないなあ」

 段々と苛立つシエルを、ロランが宥める。こういう時、彼は身軽に話を変え、シエルの機嫌を取るのだ。ロランにとって、一つ下の少年は弟のようでもあった。

「首都へ行くついでだ、何か欲しいものはある?」
「上等な葡萄酒なんかあれば、豊穣の餐を退屈せずに済みそうだ」
「できる限りの努力はするよ」

 そう言い終えると、ロランは弾けたように咳き込んだ。シエルは素早く友人の元へ駆けつけ、背中を叩いてやる。しばらくして落ち着いたのか、ロランは数度肩を大きく上下に揺らす。

「とにかく、気をつけろよ」
「わかってるって」

 この時、シエルは得体の知れぬ不安に取り憑かれていた。豊穣の餐は凶事のあらわれ。二ネットの死が、その前触れだとすると。いいや、馬鹿馬鹿しいと首を振り、シエルはふたたび対の塔へ視線をやった。

***

 その朝、塔はしめやかな好奇心に包まれていた。秘密の目配せを交わし、声をひそめ、時には忍笑いを漏らす。薔薇のあの子が、遠つ国へ旅立った。子どもたちは、無邪気に隣人へ、そう口伝える。

「今日の講義は休講だって、臨時休暇だ」

 講義室へ向かうエトを引き止めたのは、双子の兄弟だった。廊下中に甘やかな匂いが満ち、エトは顔を歪めてしまいそうになるのをこらえる。

「何かあったのか」

 そう問えば、兄弟は顔を見合わせ、目を丸くする。そうしていい話相手ができたと、もったいぶって口を開いた。

「何かあったも何も……」
「知らないのか、エト! 塔の中はこの話で持ちきりだぞ」

 ユーゴは鼻を膨らまし、意気揚々と喋った。
 そういえば、とエトは思う。すれ違う子どもたちは、一様にしてどこか浮き足立っていた。

「二ネットが亡くなったんだ」

 レオの声色は、あまりにも平静を保っていたものだから、エトはうまく彼の言葉を咀嚼することができなかった。エトは、二ネットをよく見知っていた。最後に話したのだって、おとついの晩のことだ。

「そうか、エトは初めてか」
「講義で習ったろう」

 肢体に彩られた花の痣は、子どもたちを蝕んでゆく。子どもたちが激しい感情にその身をせき立てられた時、病の種子は発芽するのだ。薄い皮膚の下に這う蔦は、1日かけて四肢を巡り、やがては心臓を刺す。甘い匂いは警告だ。これ以上、感情を高ぶらせてはならない。激情の波にのまれるほど、花は芳香を増す。エトは、ネリーが激昂した夜を振り返る。今にして思えば、彼女は死の瀬戸際にいたのだ。

「……それにしても、胸焼けしそうな匂いだね」
「噂では恋人に振られたから、らしいぜ」
「……恋人?」

 エトが聞き返すと、レオが意地悪く笑う。

「これも知らないのか、案外エトは鈍感だな」
「二ネットは年上の、ジョゼと付き合っていたんだ」

 名前に聞き覚えはあった。エトが記憶を掘り返している傍で、レトとユーゴは軽口を叩きあい、勝手な憶測を飛ばす。ジョゼは女癖がひどいとか、二ネットは故郷に恋人を残していたとか、そのような根も葉もない噂の類。誰もが心のうちに、大方作りごとめいた話なのだと理解している。だけれども興を削がないために、噂に飛び乗っては、どれが本当のことかを吟味するのだ。

「いつか、ああなると思ってたぜ」
「それより、せっかくの休暇なんだ。外で遊びに行こう」
「ああ、湿っぽい話はまっぴらだ」
「この匂いから逃れたいしな」

 レオとユーゴはぐっと伸びをすると、廊下を駆け出した。結局のところ、彼らにとっては二ネットの死など、どうでもよいのだ。
 彼らは走りながら、声高く詩の一節を諳んじる。

「汝、健やかなる魂を育めよ」

 感情にのまれず、激することもない魂が、健やかなる魂とでも呼べるのだろうか。
 いつまでも動かないエトに痺れを切らし、ユーゴが声をかける。

「おおい、エトも行くぞ!」

 その時、視界に捉えたのは、うつむきがちにこちらへ歩み寄る少年の姿だった。彼が気になったのは、エトの勘だ。どこまでも死に希薄な塔の中で、あの少年だけは異質に感じたのだ。

「……ごめん、先に行ってて!」

 声を張り上げると、双子の兄弟たちの背中は小さくなっていった。彼がジョゼだという確信めいたものが、エトにはあった。
 ジョゼは背が高く、図体だけみれば、大人となんら変わりのない子どもだ。塔の制服は、彼には窮屈すぎるくらいだった。褐色の肌は、南の地方の生まれだろうことを思わせる。
 エトが彼の前に立ちふさがる。ジョゼは、いたく疲弊していた。

「君が、ジョゼだよね」
「あんたは、確か……エトだな」

 ジョゼは、うっそりとエトを見つめ返す。

「急に引き止めてすまない」
「それで、何の用」
「余計なお世話だとは重々承知だ、けどあまりにも君が……悲しんでいるように見えたから」

 エトの気遣わしげな視線を跳ね除け、ジョゼは大きく息を吐きだした。鈍色のため息だ。

「噂には聞いてたけど、お前は相当好奇心が強いな。知りたいんだろ、彼女の死の真相」

 ジョゼが自嘲気味に笑った。

「違う、違うんだ」

 エトが大きくかぶりを振る。そうしてゆっくりと、言葉を選びとっていく。

「上手く言えないんだ。ただ、他の皆は死に淡白だったから、余計に君が気になって」
「ああ、だろうな。ここにいれば、全員そうなる」

 いずれは、誰しもが死に慣れていくのだろうか。エトは、じわりと腹のあたりが重くなる。
 ほんのひと時の沈黙の後、先に口を開いたのはジョゼの方だった。

「場所、移動しようか」


 階段の踊り場は、窓から一筋の金色の光が差し込んでいる。喧騒は遠く、ここならば誰も立ち入ることのないのだろう。
 ジョゼはオリーブ色の壁にもたれかかり、きっちりと結ばれたループタイを解く。緩慢な仕草で襟裳の鈕を外せば、なだらかな鎖骨のあたりにかけて広がる、丸みを帯びた花が姿をあらわす。

「これ、見てくれ」
「……花の痣。こんなにも薄い」
「プリムラの花だ」

 エトのものと比べて、ジョゼの痣は淡く掠れていた。もはや花弁の輪郭は、肌の色と曖昧に溶け合っている。

「俺、もうすぐで塔を出るんだ。大人になる」

 彼は淡々と、そう言ってのけた。神さまは無垢な子どもを尊ぶ。大人になれば塔を去るのは、当然のことだ。厳粛な手続きを重ね、国に雇われたものしか、大人が塔に立ち入ることはない。

「……二ネットには」
「もちろん、伝えたよ。互いの故郷はひどく離れていたし、塔を出たらもう会えなくなることは、承知の上だったんだ」
「……彼女の方が耐えられなかったんだね」
「花ってのは、脆いんだな。少しの負担で、萎れちまう」

 ジョゼの声色は、存外におとなしやかなものだった。そうして、しとしとと言葉を継ぐ彼の語り口は、のどかな春雨を連想させた。

「ここの奴らは、昨日まで隣で机を並べていたやつが死んだって、あっけらかんとしてるんだ。亡くなるのは神さまが見捨てたからで、病が治るのは試練に乗り越えたから。全てが、神の思うままに、って考えてる。だから、死に鈍感なんだろうな」

 塔の子どもは死に近いからこそ、悲しむことはない。悼むということを知らないのだ。二ネットが亡くなったことも、明日になれば忘れてしまうだろう。

「私は……神さまの教えを尊いものだと思うよ。だけれども、もし、友人が亡くなった時、それを神さまの思召しのためだけに旅立ったと、考えたくないんだ」
「そうだな」

 ジョゼが静かに頷く。

「……今となっては、シエルの気持ちもわかるんだ」

 神さまを信じない、あの背徳的な少年は、彼女の死をどう思うのだろう。エトは目を瞑り、くゆる思考を巡らせたが、想像につかない。
 ジョゼは壁からそうっと離れると、エトの方へ顔を向けた。憂いを帯びているが、会った時よりはうすらと晴れやかだ。彼は片手をあげる。

「豊穣の餐の前に、ここを出るんだ。また会うことがあったら、よろしくな」

 エトはジョゼを見送ると、制服の袖裾を捲った。左腕に滲み出る、エニシダの花の痣に視線を落とした。細やかな花びらが連なり、一つの植物を形作っている。ジョゼの痣と比べても、彼女のものははっきりとしていた。けれどもはじめて塔に来た日より、痣は広がり、色濃くなっていたのは、どうしてだろう。