逃避行

 シエルにとって、塔はひどく歪な場所だった。恐らく、両親が無神論者だったことに起因するのだろう。彼がクレマチスの花を咲かせた時、両親は幼い彼を掻き抱いて、涙を流した。痣が消えるまで、隠し通さなければならない。そう、彼の父は決心したのだ。
 けれども、概して幼子など、癇癪を起こすものだ。その度に、僅かに甘い匂いが香る。人の口に戸は立てられない。彼処の家の子どもは、花の病ではないか。噂が及んでしまえば、あとは時間の問題だった。
 季節が巡れば、数々の死が降り積もる。塔に来てから、シエルはいくつもの別離を経た。花の病を克服したもの、あるいは死をもって潰えたもの。シエルがもっとも恐れたのは、子どもたちの、死に対する希薄な観念だった。
 だからだろう、エトに興味を持ったのは。信心深い口ぶりをしながら、その実、信仰心などないのだ。彼女はただ、母の教えに従っていたに過ぎない。そこに、エトの意思は介在しなかった。



「私、は……」

 言葉が詰まる。これまで、エトは母が望むままに振舞ってきた。塔を出るなんて、そんな背徳めいたこと、許されるはずがない。けれども実際、エトはこの誘いに、蠱惑的ななにかを感じ取っていた。

「無理にとは言わない。ただ、明日の、朝一番の列車で発つ。祭事の翌朝だ、大人たちの目も緩むだろう」
「塔を出たところで、君はどうするんだ」
「眠るロランの顔を、一目見ておきたい。それも終えたら、そうだな。痣が消えるまで、身を隠して暮らす」

 齢14の、世間から隔絶された子どもが、果たしてひとりで生きていけるのか。普段のエトなら、甘い考えだと一蹴していたのかもしれない。けれども、眼前の少年の、あまりに切々とした面差しに、何も言えなくなってしまう。もし、このまま彼が塔に残ったのならば、身体より先に心が朽ちてしまうのだろう。
 いっそう、エニシダの匂いが濃くなる。

「……深呼吸しろ。気を落ち着かせて、この甘い匂いをどうにかするんだ」

 シエルは、けして弱くはない力で、エトの肩を掴んだ。静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。幾度か繰り返したところで、ようやくエトは平静を取り戻した。
 甘やかな香が四散すると、シエルは掴んでいた手を離す。そうしてそのまま背を向け、歩き出した。

「シエル!」

 思わず、彼の名を叫ぶ。しかし、かける言葉が見つからない。

「……おやすみ」
「ああ、おやすみ」

 そうしてようやく吐き出した言葉は、頼りないものだった。
 シエルの去りゆく背中を見つめながら、エトは考える。エメ。幼いながら、流行り病で命を落とした、彼女の兄。彼は、大人がまさしく望むような子どもだった。だからこそ、商家の跡取りとして、一等期待を浴びたというのに。

「エメ、どうして君が亡くなったんだ」

 そしたら、エメのまがい物などではない、まさしくエトとして振る舞えたのだろうか。しかし、それも今となっては、せんなきことなのだ。

***

 朝靄を切り裂くよう、列車は走る。塔は遥か彼方、随分遠くまで来たものだと、エトは感慨にふける。二つ隣のコンパートメントに、品の良い老婦人がうつらうつらと舟を漕いでいた。
 正直に言ってしまえば、エトは自身の信仰のあり方を、はかりかねていた。それでも、エトはシエルと逃げることを選んだのだ。

 ロランの亡骸に会えば、わかるのかもしれない。

 信仰を遂げるために死にゆく彼は、どのような顔で最期を迎えたのだろうか。苦痛の果てか、それとも。エトは窓枠に頬杖をつき、思索の海に沈んでいると、向かいの席に座るシエルが口を開く。

「痣が濃くなれば、それだけ効能が高まる。あのまま塔に留まれば、お前も首都へ行かされただろうな」
「首都では、何が行われているの」
「長患いの上流階級に、アロマでも振舞ってやるのさ」

 シエルは自嘲気味につぶやいた。その声は、疲弊に満ちている。

「暇だろ、昔話に付き合ってくれよ」

 エトは黙したまま頷いた。シエルがこういった話を持ちかけるのは、初めてのことのように思われた。

「なあ、人が死ぬ瞬間を、目の当たりにしたことがあるか」
「いいや」 
「俺はある」

 シエルは深く息を吐き出した。

「一昨年の冬に死んだやつは、ひどく反りが合わなかった。きっかけは些細な喧嘩だったな。けど、神をことごとく否定したら、ひどく逆上して、そのまま死んでいった」

 彼の者は、きっと花の香を纏いながら死んだに違いない。甘やかな警告にも気付かずに、蔦が心臓を搦めとる様を想像する。あまりにも残酷な光景だ、とエトは思った。

「恐ろしい死に顔だった。ああいうのを、憤怒っていうのかもな」
「シエルは、死をどう思ってるの」
「永遠の暗闇だ。現世の行いなんて、きっと関係ない」

 腕を組み、はっきりとした語気でそう言い切ってみせたのも束の間、彼は悩ましげにかぶりを振った。

「偉そうに講釈垂れたところで、真実は死者のみぞ知るんだろうな」
「きっと、そうなんだろうね」

 つまるところ、確かなものなど、何一つないのだ。
 2人がぽつぽつと言葉を交わす間にも、列車は風をきって進みゆく。振り返ったところで、もう塔は姿を消していた。

「もう、塔が見えなくなった」
「寂しいのかい」
「いいや、まさか。ロランがいなければ、名残惜しさもない。けれど、ただ……」

 列車は石造りのトンネルに差し掛かった。あと一時間しないうちに、首都へ辿り着く。

「もう一度、お前のピアノをきいておいた方が良かったのかもしれないな」
「私を、買いかぶりすぎだよ」
「どうだろう」

 シエルは曖昧に、相槌を打つ。二人の会話は、それきりだった。

 子どもたちが、友の抜け殻を目にする機会はほとんどない。塔で亡くなれば、大人たちの手によって人知れず対の塔へ葬られる。外で命を落とせば、聖者として讃えられる。やがては首都の墓地におくられて、ふたたび塔へ戻ることはない。
 首都に着けば、二人は人の波を縫うように、駅舎からおどり出た。久方ぶりの雑踏だ。エトは戸惑いながらも、シエルの背を追いかける。

「さあ、はぐれるなよ」
「わかってるよ」

 子どもたちは、古典的な煉瓦造りの建物が並ぶ通りを歩む。首都の建物は、どこか重厚な雰囲気を醸し出す。どの建物も、白や茶色などの落ち着いた色合いを基調としたもので、古めかしい印象を与えた。

「それにしても、なんだか変な雰囲気だ。どこの家も窓は締め切っていて」

 エトは辺りを見回しながら、そう呟いた。年代物のアパルトマン、派手な看板を掲げたチョコレート屋。目に入る建物のほとんどは、分厚いカーテンで窓を覆っていた。行き交う人々も同様で、暗い色合いの服ばかりを身に纏う。

「子どもに、葬列を見せないためだ」
「……葬列?」
「目抜き通りの方に行けば、見れるさ」




 ようやく辿り着いた首都の目抜き通りは、厳粛な雰囲気に包まれていた。人々は葬列を一目見ようと、道の脇に立ち、声を潜めて囁きながらも首を伸ばす。彼らの視線の先、盛装した聖歌隊や司祭たちが、一列に連なっていた。その先頭、真白の馬車が硝子の棺を携えて、葬列を率いてゆく。聖櫃の中、金木犀に抱かれて眠る彼の人は、紛れも無い。ロランだ。

「こりゃ、大層な行列だな」
「しかし、酷な事だよ。まだ子どもだったんだろう」
「仕方ないさ、そういう使命を果たすために、生まれたんだから」

 ひそやかな、低い話し声。葬列を遠巻きに眺めながら、大人たちは軽口を叩きあう。

「だめだ、これじゃあロランが見えない」

 その傍らで、エトは呆然と立ち尽くしていた。ここは、子どもばかりいる塔ではないのだ。大人たちの広い背中に阻まれて、葬列を望むことすら叶わない。

「行かなきゃ、ロランの顔を、見なきゃ」

 宵の眸は、ひとすじに前へと注がれていた。彼は無意識のうちに、群衆へ飛び込んだ。人の波を掻き分けて、友の元へ行かねばと踠く。
 ロランは、自らの信仰のために死んだ。それは、本当に正しかったのだろうか。故郷にも、ましてや塔にも還れず、ひとり睡る。それでは、あまりにも。ならばとシエルが、自分こそが、彼を見届けねばならない。シエルを突き動かすものは、義憤にも似た感情だった。

「シエル、待って!」

 後ろで、エトが叫ぶ。遠くからでいい。一目、ロランの顔を見ることができたのなら、それでいいのだ。
 やっとの思いで群衆を押し遣ると、飛び込んでくるのは重々しくも歩みを進める葬列の姿だ。清かな白い装束を纏った聖歌隊は、神の慈しみを讃える詩を歌う。皮肉なものだ、とシエルは思う。神を慈しんだが故に、ロランは逝ってしまったのだ。

「シエル、急に走り出すなんて」

 数秒遅れて、エトが追いついた。しかし、シエルは物言わない。彼の視線は、ロランを連れ行く聖櫃に絡め取られていたからだ。夜色のまなこが、揺らぐ。そこからは、すべてがゆるやかに流れていく様に感じた。
 全ての苦難を享受したような司祭の深いしわ、大人たちの身勝手なさざめき、肌を撫でる冴えた静謐さ。世界を彩る一つ一つが、はっきりとエトを呑み込む。そして、かすかに見えた、ロランの顔。彼は、どこまでも澄み渡った表情をしていた。悲しみでも、怒りでもない。ひたすらに、安寧に満ちていた。エトはただ、彼の亡骸を、綺麗だと感じたのだ。
 遠くで鐘の軽やかな音が響き渡った。