過去

 『これ』は、たぶん人じゃない。

 直感的に、そう思った。冴えた空気が私の頬を撫でる。唾を飲み込んで、そうっと後ずさった。夜の校舎は張り詰めたしじまに包まれており、薄気味悪さを感じさせられる。私はなるべく人当たりのよさそうな人を装って、『これ』に笑いかけた。そうすると『これ』もまた僅かな間を置き、そして首を傾げてほほ笑んだ。

「こんばんは」

 若干声が上ずる。『これ』は不思議そうに私を見つめる。暗闇の中で、猫みたいに瑠璃色の瞳がぼうと浮かんでいた。

「こんばんは」

 中性的な声だった。どちらかというと男に近い。『これ』は笑みを顔に張り付けたまま、私に近づいた。

「こんな所で、何をしているの」

 『これ』の問いかけ。私は眉根を少し寄せた。長年付き合いのある友達に話しかけているような口調だ。

「散歩、です」

 それは明らかな嘘だった。でも『これ』は納得した様に一人頷いて「そっか」と呟いた。そしてまた一歩、距離をつめる。窓から流れ込む仄かな月明かりが『これ』の顔をはっきりと照らした。とても綺麗な顔立ちだった。まるで、つくりものみたいな。

「あなたも、こんな所で何をしているんですか」
「散歩」
「そうですか」
「うん」

 そしてまた『これ』は押し黙る。私は押しこめていた息をふうと吐き出した。

「まだ帰らないの?」

 『これ』は近くの机に腰かけた。私はこくりと頷く。

「君って面白いね」
「……そうですか」
「うん」

 ふと時計を見る。時刻は八時をとうにまわっていた。『これ』は何が楽しいんだか、ずっと笑い顔。瑠璃色の瞳も細めらている。

「なんていう名前?」
「え」
「君の名前」
「……寺井、陸」
「ふうん、よろしく」

 青白い腕を私の方へ差し出す。それをとっていいのか、躊躇した。でも、私は。おずおずと、その腕をとった。