銀の小枝

 私が陰鬱な事件と称する出来事が起こったのは、15歳の時でした。あの日の雲の動き、雨の匂い、血の気の失せたロナルドの顔。鮮明に覚えています。あれは、夏の日です。レイチェルが夏期休暇でお屋敷に戻り、私は朝から遊びに出かけました。鉛色の雲が辺りを覆い、荒涼とした風がロイストンに運ばれ、私は嫌な予感に囚われていました。気分が仄暗くなりましたが、お屋敷に来ればそれも忘れるというもの。午前中の間は、談話室でお茶会の真似事をしていました。レースで飾られた純白のテーブルクロスはシミひとつなく、持ち込まれた菓子も上等のものでした。けれどもレイチェルはどこか憂いを帯びた様子で、私は首を傾げました。

「レイチェル、今日は何だかぼうっとしてるわ」
「そうかしら。きっと天気のせいよ、雨の日って退屈だから」

 レイチェルは小皿に盛られたスコーンを手に取り、口に入れました。美味しいお菓子、最上の友人、これらに囲まれて、私は何を恐れているというのでしょう。胸に漠然とした黒い塊を抱え、私は額を手で押さえました。
 その時、騒がしい足音が響き、扉が勢いよく開け放たれました。ニコラスが顔を出します。

「わあ、やっぱりここにいた! ぼくも仲間に入れてよ」

 うっとりとする微笑みを浮かべ、ニコラスは私達の元へ近づきました。レイチェルはニコラスをじっと見つめ、澄まし顔で言いました。

「いいわ。でも、ひとつ条件があるの」
「条件って?」
「銀の小枝、持って来てちょうだいな。貴方、いつも言ってるでしょう。妖精の通り道に、銀の小枝があるんだって」

 ニコラスは、じっと辛抱強く、レイチェルの言葉を聞いていました。彼女が妖精のことを口にすることは、本当に稀でした。そういった話をするのを厭うのです。ですから、私にはいつもの悪戯なのだと気がつきました。彼女は本気ではないのです。

「それさえあれば、仲間に入れてくれるんだよね」
「そうよ。それどころか、貴方の言ってることが嘘ではないって、信じてあげれるもの」

 ニコラスの顔が明るくなりました。その顔を見て、すっかり私は彼を憐れみました。そうしてどうにかして助け舟を出さなければならぬ、と決心しました。勝算のない賭けなんて、乗る必要など全くないのです。

「さすがにかわいそうよ」
「いいよ、イヴリン。僕、やるよ」

 威勢良く言うと、ニコラスは談話室から飛び出しました。後ろ姿の、なんと頼りないこと。12歳の少年とは思えない、小さな背中でした。あの細腕で、どのようにして姉の難題を解決できるのでしょうか。私は非難がましい視線をレイチェルに送りました。密やかな抵抗は、レイチェルの笑い声で一蹴されたのです。

「大丈夫よ、そのうち飽きてしまうわ。それにこうすることで、あの子に分からせてやるの。現実を見なさい、って」
「確かにそうかも知れないけれども」
「あの子も夢から覚める時よ。そうすれば、私と同じように学校へ通うことを許してもらえるかもしれない。あの子は頭は悪くないんだから、学びの場と健全な友達が必要よ」

 それ以上、私は抗議の声を上げることはできませんでした。満足したのか、レイチェルは再び、このしめやかなお茶会を続けようとしたのです。私は、ニコラスが学校に通えない理由を考えました。彼の空想癖は、そんなにいけないものなのかしら。少しばかり度を越してしまう時もあるかもしれません。けれど、大人になれば失われゆくものでしょう。少しロナルドやレイチェルには、神経質なところがあるのかもしれない。そう、結論付けたのです。
 
午後になれば雨が降り、それは勢いを増していくばかりでした。風はお屋敷の窓を叩き、雷は地を轟かせ、暗然たる気配がそこら中に沈殿していました。もう夜の帳が下りたのではないか、そう錯覚してしまうくらいには、中は暗いものでした。夕方を過ぎても、雨の勢いは衰えを知りません。私とレイチェル、そして年老いた家政婦は鬱々たる夕べを乗り切るべく、灯りをつけて居室に集まっていました。

「いつになったら止むのかしら。帰れそうにないわ」
「そしたら泊まっていきなさいよ」
「そうね、お言葉に甘えようかしら」

 長いソファに腰掛け、私達はただ談笑を交わしていました。することがないのです。暇を持て余していると、青い顔をしたロナルドが駆け込んできました。息を切らし、唇は戦慄いています。常ならば丁寧に撫でつけられた髪も、すっかり乱されていました。鬼のような形相で、レイチェルの肩を掴み、揺さぶります。

「ニコラスを見なかったかい?」
「痛いわ、父様! ニコラスがどうしたの」
「いないんだ、どこにも!」

 私とレイチェルは目配せをしました。銀の小枝を探しに出かけて、戻ってこないのだと気がついたのです。

「庭師の者が、雨が降る前に外へ出ていくニコラスを見たと言っていた。声をかけると、すぐに戻ると……。それなのに、ニコラスは!」
「旦那様、落ち着いてください。他の使用人に声をかけ、周囲を探させましょう。お嬢様方はこの部屋で待っていらして!」

 家政婦は言うやいなや、機敏な動作で手配を始めます。ロナルドは力なく、ソファに倒れこみました。頬を汗が伝い、顔には生気が宿っていません。私が呆然としていると、レイチェルが耳打ちしました。

「さっきのこと、内緒にしましょう。ニコラスは銀の小枝を探しに行ったわけではない、いいわね?」

 私は、恐怖で返事すらできないでいました。私達のせいなのです。ニコラスがこの豪雨の中、一人で彷徨っているのかと思うと、胸が締め付けられました。もしかしたら、お屋敷の中に隠れているのかもしれない、そう思い込むことが唯一の希望だったのです。

「しっかりして、父様。外に出ていたとしても、ニコラスの足では遠くに行けないわ」

 彼女自身、言い聞かせるような意味合いも含まれていたのでしょう。レイチェルは父の手を取り、必死に励ましていました。窓に視線を移せば、外套を着込んだ使用人達が陶器のランプを携え、闇の中を歩いている姿が見えます。この時ばかりは、私は妖精に祈りを捧げました。どうか、居るのならばニコラスを助けてください、と。
 ニコラスが見つかったのは、夜更けが過ぎてのことでした。ロイストンの西にある、林の中で倒れていたそうです。一命は取り留めたものの、ひどく衰弱しており、いつ命の灯火が潰えてもおかしくはありませんでした。夜中のうちに、ニコラスは私の家に運ばれ、翌朝私とロナルドも後を追いました。
 この時のことを告白しましょう。私は、恐れていました。ニコラスが命を吹き返したら、私達の悪行もばれてしまうのではないかということを。些細な揶揄いのつもりでした。けれど、ニコラスにとっては真剣なものだったのです。

「まだ意識が戻らない、今夜が峠かもしれないな」
「そんな、メイブリック先生、助けてください!」

 ニコラスは、寝台の上に伏せられていました。瞼は固く閉ざされ、その顔は静穏そのものでした。けれども脆弱なほどの白い肌は、命の煌めきを根こそぎ奪ってしまったかのようでした。ロナルドは寝台に顔を埋め、唸り声とも何ともつかぬ声で喚きました。私の父が彼の背に手を置き、必死に慰めます。一歩離れたところで立っていた私は、身が竦む思いでした。
 本当に恐ろしいことが起こったのは、その日の夜です。半ば気が狂ったロナルドをお屋敷へ帰した後、私はぼうっとニコラスの側で座っていました。父は私の姿に心を打たれた様子で、病める哀れな少年と共に居ることを、許可してくれました。父の瞳には、さぞかし献身的な娘に映ったことでしょう。昨日と打って変わり、しじまに包まれた夜でした。私は時を忘れ、ニコラスを見つめていました。いつまでそうしていたかわかりません、ですが私の意識を現に戻したのは、時計の鐘の音でした。ふと窓枠に視線を移すと、そこにあったのは、紛れもなく銀に鈍く輝く、小枝だったのです。私の自制心が僅かでも足りていなければ、悲鳴をあげるところでした。よく、覚えています。神々しいまでに光を帯びた、あの小枝のことを。私は咄嗟に手に取って確かめよう、そう思いました。そうして腰を僅かに浮かせ、窓枠に手を伸ばした時のことです。彼の人の目が開いたのです。

「ニコラス!」

 ニコラスは緩やかに身を起こすと、私をじっと見つめました。灰色の双眸は、月の光によって、艶かしく煌めいていました。宝石のごとく、美しくも無機質な顔に、私は唾を飲みました。

「イヴリン、見て、銀の小枝」

 ニコラスは銀の小枝をそっと手に取ると、恭しく口づけをしました。そして、時間をかけて、淡く笑むのです。

「約束、守ってくれるよね」

 私は言葉を返すことが出来ませんでした。何故なら、ニコラスは事切れたように、寝台に倒れこんだのです。私は恐る恐る、ニコラスの鼓動を確かめました。胸に耳を近づけ、神経を研ぎ澄ませました。ニコラスの心臓の音は、止まっていたのです。
 この先のことを綴るのは、少々躊躇われます。気が触れたと思われても、おかしくないでしょう。ですが、私の思う真実を、書き留めておきたいのです。とにかく、先へ進めましょう。
 ニコラスが亡くなったことを悟った私は、一目散に自分の部屋に逃げました。そうして、眠れぬ夜を過ごしたのです。弁明しておくと、父に知らせるなんて賢明なこと、私の精神状態では及びもつきませんでした。翌朝、私は凍える気持ちで、ニコラスの部屋を覗きました。恐らくは、父が悲しみを持って彼の亡骸を見つけているのだろうと。しかし、現実は異なるものだったのです。
 ニコラスは、生きていました。

「おはよう、イヴ。見てごらん、ニコラス君が意識を取り戻したんだ」

 父は私を手招きしました。ニコラスは寝台から起き上がり、黙したまま微笑んでいます。それに、あの血色の良さ。本当に、病人のものとは思えませんでした。

「どうしたんだ、おかしな子だね」

 呆然と立ち尽くす私に痺れを切らしたのか、父は手を掴み、中へと引っ張ります。ニコラスと、目が合いました。背筋に冷たいものが這い、目眩がしました。そして、私はある考えに取り憑かれたのです。あれは、ニコラスではない別の何かであると、昨夜、私の知るニコラスは確かに死んだのだと。私は窓枠に視線を滑らせました。銀の小枝を見つけようとしたのです。けれど、そこには何も、なかったのです。

「奇跡的な回復だ、ひょっとすると前よりも顔色が良い。しかし油断はできない、当分は大事をとって安静にしていなさい」
「ありがとう、メイブリック先生」
「それにしても、どうしてあんな森にいたんだ」

 ああ、聞いてはだめよ、やめて。身勝手にも、私はそう叫び出しそうになりました。

「僕もよく、覚えてないんだ。たぶん、森で遊びたかったのかも」

 それは嘘でした。父は疑ってはいません。しかし、私ははっきりと確信したのです。細められた双眸の奥底に、怪しい光があることを。ニコラスは、私の知ってるニコラスは、こんなにうまく人を出し抜くことができたでしょうか。
 そうして、ニコラスは私に向けて、感謝の言葉を告げたのです。

「そうだ、イヴ。昨夜、ずっと側にいてくれたことを聞いたよ、ありがとう」

 私の知ってるニコラスは、私のことを、愛称で呼んでいたでしょうか?



 その日の午前のうちには、ロナルドやレイチェルがやって来て、感動の一幕を果たしました。けれども、レイチェルには罪悪感が残っているようで、ニコラスと共にいることに躊躇いを覚えたようでした。ですから、私はロイストンの街を散歩しないかと誘ったのです。
 ロイストンの街は長閑ですが、少なからず人の往来はあります。私たちは並んで、街の目抜き通りを歩きました。

「ニコラスのこと、良かったわね」

 未だに、私の声は強張っていました。レイチェルは俯いて、悩ましげに首を振ります。

「そうなのかしら。ねえ、イヴ。銀の小枝のことは、ずっと秘密にしましょう。せっかく、ニコラスだって忘れてる。私たちが掘り返す必要なんてないわ」
「確かにそうかもしれない、けどね、あの子は忘れたふりをしてる!」

 私はもう限界でした。散歩に出たのも、レイチェルの為だけではありません。私の神経はすり減り、疲れ果て、怯えていました。

「どういうこと?」

 レイチェルは立ち止まり、怪訝な表情をしました。昨夜のことを言ってしまいたい衝動に駆られたのです。1人では抱えきれない、きっと、レイチェルなら理解してくれる、何故なら腹心の友なのですから。

「私、見たのよ。昨晩、私ずっとニコラスを見てた。そしたら、いきなり起き上がって、銀の小枝を持って言うの。約束を守れ、って。その後急に倒れたから、見てみたら、死んでたわ。ニコラスは死んだのよ!」

 堰を切ったように、言葉が溢れました。感情的な私に対して、レイチェルは大袈裟なくらい冷静でした。

「それで、言いたいことは終わり?」

 レイチェルは、軽蔑の眼差しで私を見ていました。ここに来て、とめどない後悔が押し寄せました。もし昨晩のことが私の夢だったとしたら。いいや、けれど、確かにあれは現実のことだったに違いない、もし、けれど。そう逡巡している内に、レイチェルは踵を返していました。

「待って、レイチェル」
「こんな時にふざけたこと言うなんて、信じられないわ!」

 激しい怒りを浴びせ、レイチェルは私を置いて去って行きました。私とレイチェルの友情は、これで欠けてしまったのです。私の大切な片割れ。もう消して手に入らぬ幸福を回顧し、涙が溢れるばかりでした。
 私は、おかしくなってしまったのでしょうか。